2013/7/8-13

 

2013/7/8(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 13:17 賛美  新聖歌181・聖歌414
 「指導者」について更に次の点に注意を向けなければならない。パウロは「兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした(?テサ2:9)」と述べている。しかし、同じ使命を神から与えられた者全てがそうであるとは限らないのである。日本の福音宣教の停滞について論じた書物の中である方が、日本の教会は伝道、伝道と掛け声は発してきたが、エネルギーの大半を未信者への伝道よりも内部争いに費やしてきたのではないか、との趣旨の発言をしておられたが、同感である。もちろん、教会の歴史において絶えず真理のための論争があったことは事実である。パウロもコリント教会の分派について「あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません(?コリ11:19)」と述べている。しかし、日常繰り返される内部争いは真理のためのものよりも肉の争い―権力争い、ポジション争い―が大半である。先日と同じになるが「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい(ロマ 12:2)」と言うパウロの言葉に耳を傾けよう。
 

 

2013/7/9(火)担当 ラウジー満世師 列王記上18:16-19 賛美 新聖歌302 聖歌487
 いよいよアハブ王がエリヤと出会った。そこでエリヤがアハブに対して450人のバアルの預言者と400人のアシェラの預言者、すなわち偶像に仕える者たちを集めるよう申し出た。このとき、二人はお互いに「イスラエルを煩わす者」と非難している。「煩わす者」という呼び方はヨシュア記において罪を犯したアカン(ヨシュア6:18)など、幾つかの箇所で用いられている。これは愚かな誓いを立てたり、誓いを破った者に対して用いられる。アハブにとって、エリヤはそのような存在であった。しかし、エリヤはアハブ自身が語ったこの言葉を用いて、アハブが偶像礼拝を取り入れて真の神との契約関係を破った、その背信行為を指摘したのである。
 アハブはエリヤを「煩わす者」と呼んで非難しつつ、実は自分が偶像礼拝によってイスラエルを煩わせていた。アハブが意図的に偶像礼拝を取り入れたか、彼自身知らぬ間に偶像礼拝を行っていたか、聖書は語っていない。しかし私たち自身も神に仕えている、クリスチャンであるといいながら、偶像や自分の願いをいつの間にか神としてしまい、神を煩わせてしまう危険性が常に信仰生活には隣り合わせである。日々自分の心を整え、主を神として主に従おう。
 

 

2013/7/10 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙13: 17 賛美 新聖歌316・聖歌500
 この箇所において今一つ考えなければならない事柄がある。前世期半ばから韓国やアメリカから起こって来た教会成長運動である。この運動は神の祝福を教会に集う人々の人数、経済規模によって計る。またその成長手段を「聖霊」と言いながら、市場調査やその他の経営学的手法に求める。教化方法は聖霊による導きと言いながら、心理学的手段その他世的手段に頼るのである。この手法を全面的に取り入れたところは確かにある程度の「教会成長」を遂げた。しかし、教会成長のための戦力にならない障害者、貧者、弱者は軽視され、置き去りにされるのである。これが主の意図された教会であろうか。この運動の問題点は教会を「この世における神の国」から「この世の一勢力」に引き下げたことである。真実の神の祝福―霊的祝福を物質的豊かさに置き換えたことである。パウロは「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです(ロマ 14: 17)」と述べている。更に注意すべきことは、以前の異なる教えは、大体グループ単位であったが、この運動は教団教派を越えて個々に、深く浸透していることである。それは人間の肉欲と強く結び付くからである。サタンは実に巧妙である。聖霊によって眼を開いていただき、しっかりと見分けるものとなろう。
 
 
2013/7/11(木)担当 ラウジー満世師 列王記上18:16-29 賛美 新聖歌338・聖歌506
 エリヤの提案を受けてバアルとアシェラの預言者たちとエリヤただ一人の戦いが始まる。双方がそれぞれの信じる神の名を呼び、その祈りと願いに応える神こそが真の神であるという。これはもちろんバアルとアシェラの預言者たちとエリヤ、偶像と主なる神との戦いである。そして同時に、これはその場に集まっていたイスラエルの民に対しても各自の責任において何を信じるか、バアルやアシェラかあるいはイスラエルの神を信じるのか、という決断を迫るときでもあった。エリヤにその選択を迫られたとき、民は誰も応えなかった(18:22)。彼らはまずバアルの預言者達の必死の祈りを眺める。預言者達が真剣に、長時間にわたって、自らの体を傷つけてまで求めても、その神々からは一向に答えがなかった。彼らは真剣であったが、力ない偶像には人々がどれほど真剣に求めようと、それに応えることは不可能であった。
 しばしば人間はむなしいものに真剣に訴え、求める。しかしいかに真剣に求めても、その求める対象が間違っているなら、それは徒労に終わる。エリヤの神、イスラエルの神、天地創造の神こそが生ける真の神であり、私達の祈りに答える神である。真の神を信じ、従えという求めに「はい」と応えていきたい。
 

 

13/7/12(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 13: 18-19 賛美 新聖歌340・聖歌590
 著者は「わたしたちのために祈ってください」と求めている。それは指導者たちが「明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思って」いるからである。パウロもまた「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください(ロマ 15:30)」と願っている。更にパウロはエペ 6: 20・コロ 4: 4・?テサ 5: 25においても祈りを求めている。指導者たちは明らかな良心を持っていると確信し、熱心に魂を愛し、教会に仕えているのである。教会成長路線に追従した人々も、その内の大多数の人々は同様である。なんとかして主に栄光を帰したいと願っての行動である。しかしサタンは巧妙である。一瞬の隙をついて道を誤らせようとする。それ故に兄弟姉妹方の祈りは不可欠である。「良き牧師は教会が育てる」と言われるが、聖徒の祈りなくしては指導者が正しく立ち、歩むことは不可能である。全ての指導者のための祈りを心からお願いしたい。
 

 

2013/7/13(土)担当 高谷由紀子師 ルカによる福音書11:27-28 賛美 新聖歌316・聖歌500
 主の説教を聞いていた群衆の内の一人の女が、主の言葉に感動して「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」と叫んだ。近東では一人の男性の優秀さや熟練は、受胎時に母親の生活に影響を与えた出来事や、生後に子どもが飲んだ母乳からくるもの考えられていたのである。ヤコブも死に臨んでヨセフを祝福するのに「どうか、あなたの父の神があなたを助け、全能者によってあなたは祝福を受けるように。上は天の祝福、下は横たわる淵の祝福、乳房と母の胎の祝福をもって(創 49:25)」と語っているのである。これに対し主は「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」と語って、本当の幸いは神の言葉を聞き、それを守る人であると示された。