2013/7/1-6

 

2013/7/1(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 13:17 賛美  新聖歌384
 指導者について著者は「この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています」と述べている。民が罪を犯した時「主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。(32:9-10)」と宣言された時、神に対して「モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。(32:31-32)」と、いのちを賭けて執り成しているのである。パウロは宣教と牧会に伴う苦難を述べた後「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか(?コリ11:29)」と語っている。今日においても、メンバーが問題に遭遇する時、牧者は度々眠れぬ世を過ごすのである。指導者を信頼し、彼らのために祈ろう。
 

 

2013/7/2(火)担当 ラウジー満世師 列王記上17:17-24 賛美 新聖歌233 聖歌229
 神が語られたとおり、女の家の粉も油も旱魃の間に尽きることがなかった。しかし、彼女の息子が病気で命を落とした。17章全体を通じて、水を与え、食べ物を与え、命を与えるのはイスラエルの神、主である。旱魃という命の危機の中で、バアルではなく真の神が命を与えられた。そして神の僕である預言者エリヤがこの女性とともに居たにもかかわらず、息子が死んだ。神の人がともにいる、神の臨在があるときに、この女はそれによって罪を思い起こさせ、責められ、罰としての死を経験させられただけだと訴える。これに対してエリヤは命を与え続けてくださった神に祈る。ここでは、従い、神の言葉を告げるだけではなく、預言者自ら神の前へ出て祈り、男の子に命を再び与えてくださるよう求めた。その祈りに神は答えてくださり、男の子を生きかえらせた。
 このことを通して女は当初の神に敵対する者であったが、神を信ずる者へと変えられた。エリヤはもはや受動的に仕えるだけではなく、神の前にとりなしをする者となっている。神に仕えるということは、神との交わりによって養われた信頼関係に立って、神の前にとりなし祈ることも含まれるのである。
 

 

2013/7/3 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙13: 17 賛美 新聖歌395・聖歌580
 先日は神にたてられて宣教と牧会に日夜意を用い、労苦している働き人について述べた。しかし「指導者」と自称する者たちのすべてがそうなのではない。主は「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている(黙 2:2)」と語っておられる。そしてヨハネは「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです(?ヨハ4:1)」と警告している。続けてヨハネは「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています(?ヨハ4:2-3)」と述べている。聖霊の臨在の中で神から出たものを判別し、正しい歩みをしょう。
 

 

2013/7/4(木)担当 ラウジー満世師 列王記上18:1-19 賛美 新聖歌302 聖歌487
 エリヤがアハブの宮廷長オバドヤの前に姿を現した。このオバドヤはアハブの僕でありながら、かつて密かに主の預言者をかくまっていた。エリヤがオバドヤに会ったとき、彼はオバドヤに自分の居所をアハブに知らせるよう勧める。しかしオバドヤは消極的であった。もしアハブに知らせてもエリヤがそのときまでに再び姿を消してしまったら、自分の命が危機に晒されるからである。アハブの近くでその振舞いを見てきたオバドヤにとってはもっともな危機感であった。しかしここでエリヤは彼に主を信じてアハブにエリヤ自身がここに居ると知らせるように迫る。
 オバドヤは期せずしてエリヤを通して主から選択と決断を迫られた。主を信じてエリヤの言葉の通りに行うのか、否か。アハブとイゼベルの時代の主の預言者への迫害の時代に密かに主の預言者をかくまうほどの勇気と信仰を持ったこのオバドヤにとっても、いざ自分の命を懸けた信仰の決断を迫られると、それは大きなチャレンジであった。聖書は彼の心境について多くを語らないが、それでもオバドヤはエリヤを通して語られた主を信じた。そしてアハブはエリヤと出会うことになった。
 あらゆる人の日々の歩みの中で小さなことから、大きなことまで、さまざまなことを通して決断を迫られる。あなたは主なる神を信じるか、否か?と。日々主に従う決断をしつつ歩みたい。
 

 

13/7/5(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 13: 17 賛美 新聖歌408・聖歌577
 「指導者」について今一つ注意を向けておかなければならない。「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです」と語られた。プロテスタント教会の礼拝の中心は「神の言葉」である。礼拝において神の言葉が説き明かされ、聖霊によってその御言葉を通して現代の私たちに対する神のメッセージが宣言されるのである。礼拝においては神の言葉―聖書が語られるのであるが、その語り方には大雑把に見て二つのタイプがあるように思われる。第一は聖書のテキストが示され、その御言葉が掘り下げられ、真意と現代の私たちに対するメッセージが明らかにされるように語られるのである。第二は、語る人の考え、思想、体験等が語られ、その権威づけとして前後関係から切り離された聖句が用いられる方法である。この方法は現代人には人気があるようであるが、この方法によると聖書全体の本意に反する事柄も聖書の心―神の御心として語る事が可能である。パウロは「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい(ロマ 12:2)」と勧めている。
 

 

2013/7/6(土)担当 高谷由紀子師 ルカによる福音書8:1-3 賛美 新聖歌452・聖歌617
 会堂長ヤイロの懇願を受けてイエスがヤイロの娘の所に向かっておられる途上の出来事が記されている。病人を癒し悪霊に憑かれたものを解放されたイエスの名声は広まっており、興味本位の群衆がイエスについて来ていた。その中に一人の女がいた。彼女は病のため十二年間も出血が止まらなかった。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。彼女は「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思いそのように行ったところ、たちどころに癒された。主は群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。弟子たちは「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」言ったが、主は自分の内から力が出て行ったことに気づいておられたのである。女が進み出てことの次第を話すと主は「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と言われた。信仰をもって近づく時、主は御業を為してくださるのです。