2021/7/19-24

 2021/7/19(月) 担当 高谷清師 コロ3:5-11 賛美 新聖歌 284

 キリストと共に復活させられた者が捨て去るべきものとして「貪欲」が挙げられている。この語について聖書思想事典は「他人のことをかえりみずに、あるいは他人に迷惑をかけても、いつもますます所有したいという渇望を意味する。」と規定し、更に「隣人愛わけでも貧しい者への愛にそむきながら、主として富や金銭などの物質的財宝を熱狂的に希求する激しい欲情という面である」と述べている。イエスは「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタ 6:31-33)と教えておられる。またパウロは「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」(?テモ  6:10)と警告している。常に神の国と神の義を求めて歩もう。

 

2021/7/20(火) 担当 ラウジー満世師 ハガイ書1:1-2 賛美 新聖歌354

 今日からハガイ書を読む。捕囚の時代に立てられた預言者であったハガイは、エルサレムに帰還した民に神殿の再建を最優先に行うように呼びかけ、短期間でその大工事を完成へと導いた。ハガイ書を読むにあたり、この時代の様子を確認したい。イスラエルは王国としての長い歴史を持っていた。ダビデ時代から南王国がバビロンによって滅ぼされるまで450年程度も続いた。その間、民は偶像礼拝を行い、社会の中で弱い者を虐げて罪を犯し続けたが、神は次々と預言者を送って悔い改めを促した。しかし最終的に北王国に続いて南王国も完全に滅びた。南王国の指導者たちを中心に多くの人がバビロンに捕囚となり、故郷を離れることとなった。その後支配国のバビロンが戦争に負け、捕囚民の支配者もペルシャへと交代した。

 イスラエルの民は捕囚の時代にも同じ地方に住まう者たちが集まって信仰を守っていた。そして預言の通り、70年の期間が満ちてペルシャ王キュロスのもとでエルサレムへの帰還と神殿の再建が許された(エズラ記1:2-4)。帰還した人々に神殿の再建が託されて新しい生活が始まっていった。

 

2021/7/21(水) 担当 高谷清師 コロ3:5-11 新賛美 新聖歌 373

 出エジプト記は「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」(出エ20:4-5)と記している。パウロはアテネの町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。これらから偶像礼拝とは、刻んだ像にひれ伏したり仕えたりすることであるわかる。同時にコロ3:5-では「貪欲は偶像礼拝にほかならない。」と言われている。キリスト者の心の王座に座すべきお方は神である。貪欲は心の王座を富や金銭などの物質的財宝を熱狂的に希求する激しい欲情が占有している状態であり、偶像礼拝にほかならないと言われているのである。注意深く吟味し、常に神を第一として歩もう。

 

2021/7/22(木)担当 ラウジー満世師 ハガイ書1:1-2 賛美 新聖歌291

 神の言葉通りの帰還を許され、民は喜びに満ちて捕囚の地を後にしてエルサレムに戻った。それから20年近い年月が経ち、ハガイが登場する。この間、ペルシャ王はキュロスとその子カンビュセスが王位に就いたがいずれも世を去り、ダレイオスが治めていた。帰還民による神殿再建は進まなかったが理由としては人手不足、経済的困窮と共にサマリアからの妨害も重なっていた。ユダの人にとって神殿は霊的な基盤であったのになぜこれほど大切な仕事が後回しになったのだろうか。喜び勇んでペルシャを後にした時の神の約束が守られたという霊的な高揚は、経済的困窮や人々の敵意による妨害によってすっかり失われていた。霊的必要のための神殿建築も大切ではあるが、日々の糧を得ることに必死になり、何とか命をつないでいた。

 ハガイは霊的な祝福の基となる場所の神殿建築が忘れ去られていることを是としなかった。人々の困窮は理解しながらも、第一に神の宮を立てることこそが民の責務であると語った。日常生活での必要に迫られて霊的な責任を軽視していないだろうか。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい(マタイ6:33)」と語られる主の言葉を私たちも心にとめ、実践しよう。

 

2021/7/23(金) 担当 高谷清師 詩 62:12-13  賛美 新聖歌 359

 詩人は「ひとつのことを神は語り/ふたつのことをわたしは聞いた/力は神のものであり/慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは「力と恵みの結合の中に、旧約聖書の神信仰の本質がある。なぜなら、恵みなき力は信頼の余地なく、力なき恵みは結局真剣さを欠くからである。だがまことにすばらしいことは、神の力の前には崩れ去って跡かたもなくなる人間が、やはり神の恵みの上に信頼を置くことが許され、またこの力ある神は、人が信仰によってその力と恵みの二つに従うなら、彼を排斥し見棄てようとされない点である。(中略)これらの根本的な真理は、魂を神に向けて受け入れる態度をとる人にだけ確認されるということである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中140P』ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。パウロは「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」(ロマ1:3-4)と述べている。キリストの復活―神の御業の成就―を阻まんとして重武装をした地上最強のローマ軍兵士も、神の圧倒的な力の前に、何の力もなかった。神の救いの御業は成就された。

 

2021/7/24(土) 担当 高谷清師 コロ3:5-11 賛美 新聖歌 390

 パウロは「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。」と語った後、「互いにうそをついてはなりません。」と語る。テモテへの手紙二においては「わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」(?テモ  2:13)と述べている。サタンの支配するこの世は嘘偽りに満ちている。防災ネットには特殊詐欺注意情報の入らない日はない。そしてうまく騙し通した者が大儲けをし、成功者ともてはやされるのである。しかし、キリスト者はこの世から贖い出され、サタンの支配から解放され、常に真実であられ、御自身を/否むことができないお方のもとに移されているのである。それ故、わたしたちも嘘偽りを棄て、常に真実に生きよう。