2012/5/7-12

 

2012/05/7(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 4:14-16 賛美 聖歌612
 「わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」と述べた著者は信仰をしっかり保つべき理由として「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」と述べる。当時、厳しい試練の中に在って信仰の試みを受けていた人々の中には、御子は神ご自身であられるから、肉の弱さを持つ私たちの試練を理解することはお出来にならないのではないか、と考える者たちがいた。これに対し著者は御子の遭われた試練は「わたしたちと同様」の試練であったと述べている。著者はまた5章7節において「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と述べている。真の人となられた御子が遭われた試練はわたしたちと同じ、否それ以上のものであり、それゆえ、わたしたちの弱さを理解し、同情してくださるお方である。このことはわたしたちに大きな励ましを与えるのである。
 

 

2012/5/8(火)担当 高谷満世師 サムエル記上19:1-24 賛美 聖歌460
 サウルは何度もダビデを殺そうと企てた。18章ではダビデを戦場に送ることによってペリシテ人に殺させようとしたが、19章ではサウルのダビデに対する殺意はさらに強まり、家臣に命じてダビデを殺させようとしている(19:1)。しかし神はサウルがダビデを殺そうとするたびにさまざまな方法で彼を守られた。ヨナタンを通してサウルを説得し、またダビデ自らがサウルの槍から身をかわし、またミカルを用いてダビデをサウルから逃がし、さらにはサムエルを用いてダビデを守られた。神のご計画を妨げようとする働きは常に起こる。そして神に用いられる僕が危険にさらされることもある。しかし、いかなる人も、力も神のご計画を阻止することはできない。神は選びに答えて忠実に従う者を、出来事の背後にあって必ず守られる。
 神は沈黙しておられるように見えるときにも確かに主とともに歩む人々を守り、導き、みこころを成し遂げられる。主のご計画が今も進められていることを信じて歩もう。
 

 

2012/05/09 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 4:14-16 賛美 聖歌 447
 もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられていること、この大祭司は罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた故、わたしたちの弱さに同情してくださるお方であることを述べた著者は「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」と勧める。これは祈りの勧めである。それは大胆に恵みの座に近づくことである。整った祈り、型にはまったよそよそしい祈りではなく、人間に差し迫って必要なものを求める率直で真心からの叫びをもって天の門を攻めたてるような祈りである。その祈りは「わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」と語られたように、御子の贖いの御業を基礎とする。人間は罪あるものであって決して神に近づくことはできない。罪の許しを与える御子の血潮を通してのみ、可能なのである。しっかりと信仰に立って恵みの座に近づこう。
 

 

2012/05/10(木)担当 高谷満世師 サムエル記上20:1-42 賛美 聖歌522
 サウルの度重なるダビデ殺害の企ての後、ついにダビデがサウル王のもとから逃亡する時が来た。ダビデは王のもとから逃れるに当たり、最終的にサウルがダビデに明確な殺意を抱いていることを確認した。ヨナタンはダビデのためにサウルの怒りを買ってまで王の真意を確かめた。王はヨナタンにも激怒した時に、ダビデが生きている限りヨナタンの王権が確かではないと語った(20:31)。それは王位継承者であるヨナタンにとってはまったく正当な論理であり、ヨナタンがこれゆえにダビデの命を狙おうとしても不思議ではなかった。しかしダビデとヨナタンはかたい友情でむすばれており、さらに二人の間には主がおられた(20:13-15)。
 人間的に見て対立が生じるようなところにも、両者が神を認めて神に従うならば、そこには真の愛と友情があり、平和がある。神はこのように心から神を愛する人々を通して神に仕える者を守り、神のご計画を確かに進められる。私たちも兄弟姉妹の間で、互いに主を認めながら主に喜ばれる友情を築きたい。そこに主が働かれる。
 

 

2011/05/11(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 4:14-16 ・創世記32:23−33 賛美 聖歌556
 祈りと言うテーマはあまりに重要であるのでしばらくこの箇所にとどまって深めてみたいと思う。まず目を向けたいのはヤコブのペヌエルでの格闘である。これ以前のヤコブはあまりにも狡猾で自己中心の人間であった。母親と組んで兄エサウの長子の特権と祝福を奪い取り、兄エサウから命を狙われる羽目に陥った。そのためハランに住む伯父ラバンのもとに逃亡する。その所において、持ち前の狡猾さによって一定の成功を収めたヤコブは故郷に帰るべく旅立つ。しかしそこには命を狙うエサウがいる。彼はヤコブの帰還の知らせを聞いて400人を率いてヤコブの方に向かっているという。恐怖に襲われたヤコブは一人ヤボクの渡しの手前にとどまって思案にくれていた。そこに神が現れ、彼は神と格闘した。夜明け直前まで格闘しても決着がつかず、神はヤコブの腿の関節を打たれた。それによって狡猾なヤコブは砕かれ、神の人、イスラエルと変えられたのである。わたしたちの祈りは神と真実に向き合うものであるべきである。
 

 

2012/05/5(土)高谷由紀子師 ペトロの手紙?1:23-25   賛美 聖歌321
 この地方ではここ数日トラックターや草刈り機の音が響いています。農家の人々が田植えの時期を目前にして、その準備の作業にいそしんでいるのです。神様は六日間の働きによって天地を創造されました。そして人をエデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされました。労働は堕落以前から人に与えられた祝福であり尊く素晴らしいものです。人の罪によって呪われるものとなった土は茨とあざみを生えいでさせるようになり、労働は苦しいものとなりました。しかし主の血潮によって罪から解放された人々には、その労働に祝福と喜びが与えられているのです。神様によって与えられた仕事に確信と誇りを持って励みましょう。