2012/5/14-19

 

2012/05/14(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 4:14-16 賛美 聖歌614
 神と格闘した人としてヨブをあげることができる。ヨブは「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった(ヨブ 1:1-3)」と言われている。特に「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」点については神が「わたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている(ヨブ 1:8)」と語っておられるほどである。このヨブに対し、次々と災いが降りかかる。息子娘はすべて死に、財産は奪われ、健康も損なう。ひどい皮膚病に罹り、激しい苦しみの中に陥る。彼を慰めるために訪れた友人たちもあまりの状態に驚き、これはヨブの罪の結果であるとし、ヨブを攻め立てる。しかしヨブは自分の義を主張し、神に何故と問いかける。ついに神はヨブに応えられるのである。
 わたしたちの人生には、神を信じ誠実に歩む人にも理不尽な試みが降りかかる。わたしたちはその意味を理解し得ず、「神よ、何故ですか」と問いかけたくなる。このような時、人は信仰を失いそうになる。しかしそのような時にも、神に問い続け神に訴え続けることこそ勝利の道である。
 

 

2012/5/15(火)担当 高谷満世師 サムエル記上21:1-10 賛美 聖歌484
 ヨナタンの協力によってサウルの前から無事に逃れたダビデの長い逃亡生活が始まった。急な旅立ちであったためダビデは当然まったく武装していない、丸腰の状態であった。逃亡のために彼は一時避難所を必要とし、まずノブの祭司アヒメレクのもとを訪れた。最初ダビデに疑いを持った祭司もダビデの言葉を信じて彼にゴリアテの剣と聖別されたパンとを与えた。本来このパンは祭司のものとなるはずであった。しかしアヒメレクは規定に反してまで、ダビデが身を清めていることを確認した上で彼に与えた。
 ダビデは自分の意思に反してサウルの前から逃れ、逃亡生活を送るようになった。これではダビデの選びが疑われるような状況であろう。しかし神はこの逃亡生活のはじめに主に仕える祭司を通してダビデを養い、必要な武器を与えてくださった。このような状況においてなお、主はお選びになった者に対して真実である。
 

 

2012/05/16 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 4:14-16・創世記18:16−33 賛美 聖歌256
 「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」と語られている言葉は祈りの勧めである、しかも、整った祈り、型にはまったよそよそしい祈りではなく、人間に差し迫って必要なものを求める率直で真心からの叫びをもって天の門を攻めたてるような祈りの勧めであると記した。本日開いた創世記18:16−33 には、ソドムとゴモラを非常に重い罪のゆえに滅ぼそうとされる主の御前で、ソドムとゴモラのために執り成すアブラハムの祈りが記されている。彼は「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」と叫ぶ。主は「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」と答えられる。更にアブラハムは正しいものが五十人に五人足りないなら、四十人なら、三十人なら、二十人なら、十人しかいないなら、・・・主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」。アブラハムの執成しは自らの信仰をかけたものであった。
 

 

2012/05/17(木)担当 高谷満世師 サムエル記上21:11-16 賛美 聖歌539
 ダビデにとってはまったく不本意な形で始まった逃亡生活であった。彼には選択の余地がなかった。彼はこのような不誠実な行動をとることを余儀なくされたのである。それでも彼は神から離れなかった。ダビデはまさに「死の蔭の谷」に居たが、その逃亡生活の最初の経験において彼は主がダビデに助けと守りを与え、必要を満たしてくださることを学んだ。詩編34編はこの時に歌われたと表題に記されているが、ダビデは「どんな時にも主をたたえる」と宣言している。自分にとっては不本意な、過酷な状況においてなお、神がともに居てくださることを彼は実感したのである。
 私たちもダビデと同じように、厳しい状況においても揺らぐことのない堅い信仰を持ちたい。
 

 

2011/05/18(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 4:14-16 ・ロマ 9:1-5  賛美 聖歌605
 執り成しの祈りを考える時パウロの「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています(ロマ 9:3)」と言う言葉を忘れることはできない。パウロは「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました(使 22: 3)」「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした(ピリ 3:5-6)」と語っているように神に対して熱心であり、イスラエルのエリート、未来を嘱望される存在であった。しかしキリストとの劇的な出会いによって救われ、福音の伝道者となった。そのため、ユダヤ人から命を狙われる存在となっていたのである。その同胞のための執成しは命をかけたものであった。執り成しとは、宣教とはこのようなものである。
 

 

2012/05/19(土)高谷由紀子師 ヨハネ1:40−42 賛美 聖歌487
 アンデレはイエスの十二弟子の一人であった。彼はまず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。また彼は大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年をイエスのもとに連れてきた。更に彼は面会を求めるギリシャ人をイエスに紹介した。このようにアンデレは日々の生活の中で身近にいる人々をイエスのもとに導いている。彼は華やかで目立つ行動ではないが、謙遜に、忠実に福音を証し伝えた人であった。もしアンデレが兄弟ペトロをイエスのもとに連れてこなかったなら、福音書に記された素晴らしい主の業を見ることはできなかったかもしれない。わたしたちは先ず身近な人々に福音を伝えることから始めよう。