≪デボーションの友≫2023/8/21-26

2023/8/21(月) 担当 高谷清師 ルカ 4:14-22  賛美 聖歌(総)433 聖歌 431

 “霊”の力に満ちてガリラヤに帰られたイエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。その評判が周りの地方一帯に広まった。お育ちになったナザレに来て、安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡されたので次のように書いてある個所をお読みになった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」そして「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。人々はその口から出る恵み深い言葉を聞いてイエスをほめた。彼らのたましいは喜びに満たされたのである。福音が語られ、魂がそれを受け入れた時、福音は魂を罪から解放し、魂は喜びに満たされる。「御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」(ヤコブ 1:21b)と記されているとおりである。

2023/8/22(火)担当 ラウジー満世師 創世記45:21-28 賛美 聖歌総合版500 聖歌483

 兄たちにはたくさんの贈り物が与えられた。多くの贈り物は、兄たちへの祝福でもあり、和解をも示すものであった。これらを持ち帰った兄たちは父にヨセフが存命であること、またエジプトでの働きと地位をすぐに伝えた。しかし報告を聞いた父の顔には喜びは浮かばなかった。まったくこの言葉が信じられなかったのである。神を信じてはいたが、やはり溺愛した息子が死んだと伝えられてから長い年月を経て、もう絶望していた父にとって、たった一言の報告で生存を信じることはできなかったのである。しかし父は詳しく話を聞き、自分のために準備された馬車を見た時に現実としてこの報告を受け取ることが出来た。

 「モノでつる」のではない。しかし、実際に現品を見ることを通して人は報告を事実として受け取ることが出来ることもある。神はそれらを知って、ヤコブが信じることが出来るように豪華な贈り物を備えられた。人の必要を知り、信じるための助けも与えて下さる神の声を聞き、目を開き、主の御業を見よう。

2023/8/23(水) 担当 高谷清師 ルカ 4:22  賛美 聖歌(総)446 聖歌 448

 この節について上田光正師は

「初めは主の恵み深い御言葉に驚嘆していた人々は、いつの間にか主の霊的能力や聡明さにその関心を移していった。すると、主が「ヨセフの子」であることに気付き、賛嘆が蔑みと躓きに変わっていったのである。マルコによる福音書六章一節以下は恐らくこの並行記事であろうが、そこには「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(三節)との言葉が報告されている。(中略)人々は確かに御言葉が告げた恵みの世界を瞬時ではあったが垣間見たのである。しかし、関心が説教者の人間的側面に移ると、すぐに躓きが起こった。なぜであろうか。説教者が「神から遣わされている」ことを忘れ、彼を「ヨセフの子」としたからである。」(説教黙想アレテイア ルカによる福音1-11章P127-250日本キリスト教団出版局2014)

と述べておられる。パウロも「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」(ロマ 1:1)、「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」(一コリ 1:1)、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」(二コリ1:1)、・・・・・自らの使徒職は神の召しに基づいていることを明らかにしている。説教者は神の召しによって立てられていることを心に留め、人間的側面によってその言葉を無にしてはならない。勿論、御名を掲げ、「召された者」と喧伝しながら、自らの欲望に基づいて語り、聖徒を食いものにする者がある。ヨハネは「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」(Ⅰヨハ 4:1)と警告している。それを見分けるのは聖霊の証による。

2023/8/24(木)担当 ラウジー満世師 創世記45:21-28 賛美 聖歌総合版596 聖歌538

 ヤコブがヨセフを失ってから長い年月が経っていた。愛息子のために神に祈り続けてきた父も、さすがに常識的に考えて彼が生きているわけがないと理解していた。獣の血が付いた衣服があり、兄弟はヨセフに出会ってもいない。状況証拠は揃っており、時間も経っている。あきらめきれずにいたとしても、ヨセフを失ってから途方もない年月が経った。憐れみを求める祈りも枯れ、ヨセフをあきらめてベニヤミンに望みを置き始めた時、神は遥か昔の祈りに答えて下さった。この息子が生きていた。

 私たちにもたくさんの神への祈りと願いがある。必死で求めたが答えられない祈りもあっただろう。あきらめて忘れ去った祈りもあるかもしれない。しかし神は聞いておられ、御心に適う時に答え、その恵みを信じるように導いてくださることがあるかもしれない。私たちは主が最善をなしてくださる生涯を生きている。主の御手に委ねる生活は驚きと感謝に溢れている。心を閉ざさず、主が与えて下さる試練と祝福を受け止めよう。

2023/8/25(金) 担当 高谷清師  ルカ 4:23-27 賛美 聖歌 539

 イエスは彼らの思いを見抜き「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」と言われた。ナザレの人々はイエスに対し、「自分がメシアであることを、奇跡を行って証明せよ」と要求したのである。これに対してイエスは「エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」とお答えになった。サレプタのやもめは大飢饉の中に在って食料は一握りの小麦粉と、わずかな油だけになってしまった。エリヤはこのやもめに「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない。」と語り、やもめはこの言葉に従った時神の約束は実現した。ナアマンもエリシャを通して語られた神の言葉に従った時、清くされた。ここで求められているのは見ないで信じる信仰である。

2023/8/26(土) 担当 高谷清師 ルカ 4:21-30  賛美 聖歌(総)514 聖歌 496

 イエスの言葉を聞いた人々は「皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」と記されている。イエスは終末の時について「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:16-19)と教えておられる。父なる神によって甦り、死に勝利された主を見上げつつ、勝利の道を歩もう。