≪デボーションの友≫2023/8/28-9/2

2023/8/28(月) 担当 高谷清師 ルカ 4:31-37  賛美 聖歌(総)662 聖歌 617

 イエスは自分を受け入れなかったナザレを去ってガリラヤの町カファルナウムに下って来られた。カファルナウムはガリラヤ湖の北西岸にある町で12弟子の内ペトロとアンデレ、ヤコブ、ヨハネ、の出身地であった。また、マタイが「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。」(マタ 9:1)と記しているとおり、イエスはこの町を愛し、宣教の拠点としておられた。イエスはこの町で安息日には人々を教えておられたが、その様子についてルカは「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。」と記している。この箇所について平野克己師は

「ルカにとって「権威」とは、律法学者との比較で明らかにされるものではなく、あるいは、単に説得力があるというのでもなく、現実の「力」を発揮するもの、しかも、悪霊に対抗して打ち勝つ力のことを指している。」(説教黙想アレテイア ルカによる福音1-11章P249-131日本キリスト教団出版局2014)

と述べておられる。ヨハネによる福音書には「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」(ヨハ 8:51)と言うイエスの言葉が記されている。また、パウロは「最後の敵として、死が滅ぼされます。」(Ⅰコリ 15:26)と記している。イエスの言葉こそ、権威ある言葉である。

2023/8/29(火)担当 ラウジー満世師 創世記46:1-4 賛美 聖歌総合版430 聖歌428

 ヨセフを失ってから長い年月を過ごしたヤコブは神の導きによってついにヘブロンから旅立つ。かつて神の召しにしたがってカルデヤを出てカナンの地に移り住んだ父祖たちの地を離れることであった。しかしヤコブはその土地を離れた時にも父イサクの神にいけにえを捧げることが出来た。父祖の神は限られた土地に縛られるお方ではなかった。どこに行ってもヤコブと共にあり、彼の礼拝を受け、ヤコブに呼び掛ける神であった。住み慣れた土地を離れることだけでも大変であっただろうが、神がアブラハム、イサクに与えた土地を離れることは、ヤコブの信仰にとっても大きな試練であっただろう。しかしこの語り掛けをもって神はどこに行こうともヤコブと共におられる神であることを示してくださった。

 父なる神は全地の造り主である。それゆえに神を信じる人々がどこに行っても決して不在になることのないお方である。いつも神が共に居て下さる。どこででも自由に礼拝をささげることが出来る。どこにいても神を見上げ、安心して歩もう。

2023/8/30(水) 担当 高谷清師 ルカ 4:31-37  賛美 聖歌(総)469 聖歌 456+

 人々が権威あるイエスの教えに驚きをもって耳を傾けている時に突然、一人の男が大声で叫んだ。著者はこの男について「汚れた悪霊に取りつかれた男」と記している。イエスが教えておられたのはカファルナウムの会堂であったであろう。すなわち、そこは聖なる礼拝の場所であった。ヨブ記は「ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。」(ヨブ 1:6)と記している。ルカは「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。」(ルカ 22:3)と記している。サタンは荒涼たる荒野、陰湿な洞窟と言ったところだけではなく、聖なる礼拝の場所、聖徒の集いにも入り込む。ペトロは「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」(Ⅰペト 5:8)と警告している。目を覚まし、主イエスを見つめつつ歩もう。

2023/8/31(木)担当 ラウジー満世師 創世記46:1-27 賛美 聖歌総合版505 聖歌487

 旅の途上でヤコブが父イサクの神に礼拝した時、神はそれを受け、声をかけて下さった。異教の地においても共におられることを示された神は、変わることのない神の約束を再確認してくださった。偶像礼拝のはびこるエジプトへ行っても、神は共にその地へ下ってくださる。そしてやがて必ず連れ戻してくださる。エジプトへ下ることもこの飢饉の中で神がイスラエルの民を守る手段として整え、計画してくださったことであった。そしてこの異教の地へ下るときにヤコブがずっと求めてきたヨセフとの再会を与えられ、ヤコブが平安を得て主のもとに召されるのである。

 飢饉のときにイスラエルの民が生き延びるために、神は前もってヨセフをエジプトに遣わして救いを与えられた。この神の計画の中で父ヤコブは計画を知らないままに長い年月悲しみに耐え続けてきた。神は悲しみに耐えたヤコブに愛息との再会を果たさせてくださり、平安の内に召してくださる。主の深い憐れみに感謝する。

2023/9/1(金) 担当 高谷清師 ルカ 4:31-37 賛美 聖歌(総)608 聖歌 574

 汚れた悪霊に取りつかれた男はイエスを目にするや否や「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と叫んだ。この叫びから人々が「イエスが誰であるか」を未だ知らなかった時に悪霊はそれを知っていたことが分かる。悪霊が知っていたイエス、その正体が「神の聖者」であると言うことであった。ペトロは人々がイエスを十字架につけたことについて「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。」(使 3:17)と語っている。人々はイエスが神の聖者であられることを知らずに十字架につけた。それ故、「自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」(使3:19)と勧めている。しかし悪霊はそうではない。悪霊が知っていたイエスの来臨の目的の第二は「我々を滅ぼすこと」であった。更に悪霊は「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。」であった。福音が初めて伝えられるところそこでは反対が起こる。それは反対運動、迫害、無視等のかたちをとる。それは悪霊の働きである。これらに対する勝利の道は「権威と力」聖霊に満たされ、御霊によって歩むことである。

2023/9/2(土) 担当 高谷清師 ルカ 4:31-37  賛美 聖歌(総)488 聖歌 471  イエスは悪霊に対してイエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると悪霊はその人から出て行った。ヨブ記においてもサタンはヨブを試みるために様々な苦難と危害を加えるが、それは神の許しの範囲内においてであってそれを超えることはできない。「黙れ。この人から出て行け」とお叱りを受けた悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。悪霊は男を人々の中に投げ倒すことはできたが、傷を負わせることはできなかった。イエスはぺトロに対して「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ 22:31-32)と語っておられる。「信仰が無くならないように」即ち、「キリストの現臨から迷い出ることが無いように」祈ってくださるのである。聖なる礼拝の場所にも、聖徒の交わりの場にもサタンは入り込む。しかしキリストの現臨の内にある魂に危害を加えることはできない。常に信仰によって歩もう。