2022/2/28-3/5

 2022/2/28(月) 担当 高谷清師 Ⅰテモ2:11-15  賛美 新聖歌 414

 本節においてパウロは婦人の救いについて二つのことを記している。第二は「子を産むことによって救われます」ということである。この箇所についてカルヴァンは

まず我々が覚えておくべきこととして、使徒はここで、子どもを産むことについてのみ語っているわけではない。むしろ彼は、女性に対し、あらゆる苦しみに耐えるようにと勧めている。なぜなら、子を宿し、子を産むことは、最も大きな苦しみを伴う[ものであるため、子を産むことは、すべての苦難を象徴する]からである。」(カルヴァン新約聖書注解ピリピ・コロサイ・テサロニケP62新教出版社1970

と記している。使徒言行録はパウロが「弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。」(使 14:22)と記している。主イエスは終末に起こる多くの苦難について語った後「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタ 24:13)と教えられたことを記している。私たちは信仰のゆえに起こる艱難と苦難に聖霊に満たされ、御霊によって勝利を得よう。

 

2022/3/1(火) 担当 ラウジー満世師 マラキ書1:2-5 賛美 新聖歌233

 マラキ書の冒頭でエサウとヤコブの兄弟を思い起こしながら、神がイスラエルを愛されたことを述べている。もちろんイスラエルの民は創世記に記されたこの兄弟のことを良く知っていた。長子ではなかったヤコブが神に愛されて神に選ばれ、イサクに続いて族長となった。マラキ書で神がヤコブを愛し、エサウを憎んだと言われたことを読むと大変驚き、きつく響く。しかしヘブル語によると、憎むということは神が徹底的にエサウと対立するという意味ではない。それは二人の内、ヤコブを神が選び、エサウを冷遇されたということである。二人の立場を分けたのは二人の持つ資質や道徳性、倫理性ではなかった。神ご自身の主権においてヤコブを愛し、選ばれたのである。

 神の選びの器となる人とそうでない人がどのような基準によって振り分けられるのか。それは神ご自身の御心に基づく、神の主権の内にある決断だと言うほかない。今の時代も私たちは自分の決心と信仰告白によって神と共に歩んでいる。そしてその背後に決定的にみられるのは神ご自身の御心に適って神の子とされたという神の主権である。それゆえに私たちは神を崇め、愛し、礼拝するのである。

 

2022/3/2(水) 担当 高谷清師 Ⅰテモ3:1b 新賛美 新聖歌 191

 パウロは「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」と述べる。初代教会の職制については、様々な議論があるが、「監督の職」という言葉をカルヴァンに従って「牧師職」として考えていきたい。カルヴァンは

「パウロはここで、監督の職について、「良い仕事」と呼ぶ。この言い方は、おそらく、プラトンがよく用いるところの、(中略)古きことわざ一一「困難で難しいものは、良いものだ」といった意味である――から取られている。パウロとしても、大切な務めには、困難が付き物であると考えていたからこそ、監督職のことを、「良い仕事」と呼んでいるのであろう。要するに、「誰でも監督の職に就くことができるというわけではありません。なぜならそれは、とりわけ大変な務めなのですから」と彼は言おうとしているのだろう。」(カルヴァン・新約聖書註解??テモテ・テトス・フイレモン書P65新教出版社2021))

と記している。パウロは「後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。」(?コリ 2:16口語訳)と述べている。この職は神の御力によらずしては、遂行は困難である。それ故、全ての聖徒の方々の祈りを必要としている。牧師職のためにお祈りをお願いします。

 

2022/3/3(木)担当 ラウジー満世師 マラキ書1:2-5 賛美 新聖歌427

 イスラエルの歴史の遠い昔においてなされた神の選びはマラキ書の時代にも変わることがなかった。3節から4節にはエドム人の破局について述べられている。エドムはエルサレムの破壊に加担した。その後ユダの南部に移住していったが、結局はエドム人以外の民族がこの地からエドムを武力によって駆逐した。御言葉の通りに、エドムがイスラエルを征服しようとした目論見も神によって破壊されたのである。この歴史を振り返りながらマラキ書は、変わりない神の選びを再認識して、民はイスラエルの神の偉大さをはっきりと信仰告白すべきであるという。

 マラキの時代、エルサレムが破壊され、帰還民によって神殿は再建されてもなお完全な回復を見ておらず、主の御業を待ち望んでいる人々に対して、昔からの神の主権による選びに変更がないことを再度明らかに示された。自分たちに価値があるから、自分たちの功績によって救いが与えられるのではなく、選びと救いと恵みに先立つのはただ神の恵みであるということをまず思い起こさせる。私たちも主の恵みにより生かされていることを覚えよう。

 

2022/3/4(金) 担当 高谷清師 詩 66:13-15  賛美 新聖歌 261

 詩人は「わたしは献げ物を携えて神殿に入り/満願の献げ物をささげます。わたしが苦難の中で唇を開き/この口をもって誓ったように/ 肥えた獣をささげ、香りと共に雄羊を/雄山羊と共に雄牛を焼き尽くしてささげます。」と詠う。1320節には個人の祈りが記されている。彼はかつて苦難の中に在った時、神に祈り、御前に誓った。今、その祈りは聞き入れられ、苦難から解放された。神の御業に感謝し、誓いを果たすのである。

 イエスがエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた時、重い皮膚病を患っている十人の人が声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスが「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われ。それに従って彼らがそこへ行く途中で彼らは清くされた。それに気づいたその中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来てイエスの足もとにひれ伏して感謝した。しかし、他の九人はイエスに感謝を献げる為にイエスのもとに戻ってくることはなかった。(ルカ17:11-19参照)

 「喉元過ぎれば熱さ忘れる」という言葉がある。人は苦難や困難に遭遇すると熱心に祈り求め、誓うが、祈りが聞かれ、問題が解決すると祈りと誓いはすっかり忘れ、あたかも自分の力によって問題が解決したようにふるまうのである。しかし、信仰者はそうであってはならない。常に感謝を献げよう。

 

2022/3/5(土) 担当 高谷清師 マタ14:22-23 賛美 聖歌 254

 マタイとマルコはイエスがパンの奇跡を行われた後、弟子たちを強いて船に乗り込ませ、向こう岸へ行かせ、「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった」ことを告げている。ルカは「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」(ルカ 6:12)後、12使徒をお選びになったことを記している。イエスは忙しい宣教の働きの中に在っても、1対1で父なる神と交わる祈りの時を欠かされなかったのである。御子イエス様においてさえそうであったのであるから、まして、わたしたちにはすべてを排して神と向き合う時が必要である。現代は忙しい時代である。その忙しさに追われて、神のみ前で静まり、神との交わりを持つ時をないがしろにしがちである。しかし、神と1対1で交わる時は信仰者の生命線である。どんな時にも祈りの時を欠かさないようにしょう。