2021/10/11-16

 2021/10/11(月) 担当 高谷清師 コロ4:10-13 賛美 新聖歌 395

 パウロはこの箇所において六人の同労者の挨拶を記している。「わたしと一緒に捕らわれの身となっている」と記されているアリスタルコは第三次伝道旅行からローマまでパウロの同伴者であった。彼はパウロと宣教に伴う艱難を共にし、共に戦ったものである。マルコは第二次伝道旅行に赴く際にパウロとバルナバの意見が対立して二人は袂を分かち、マルコはバルナバに従ったのであった。時を経て彼は再びパウロの同労者となっている。イエスは「ユストと呼ばれる」と記されている。「ユスト」は「正義」を意味する言葉である。そしてパウロは「割礼を受けた者では、この三人だけが神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です。」と記す。この言葉を記したパウロの心境はどのようなものであったであろうか。パウロは福音の真理のゆえにユダヤ人によって捕えられ、今、ローマの獄中にある。ロマ書おいて「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」(ロマ 9:2-5)と述べているように、彼は誰よりも同胞を愛していたのである。

 魂を愛し、その救いのために福音を伝えるも受け入れられず、反感と憎しみとを受け、迫害される・・・福音の先達たちが受けた不条理は今も続いている。しかし主は全てをご存知である。聖霊に委ねて愛を全うしょう。

 

2021/10/12(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書6:1-8 賛美 新聖歌420

 第八の幻が示される。四両の戦車が四方に向かって出ていく。そのうちの一つは北に向かう。イスラエルとゼカリヤにとって北の方角とは喜ばしいものではなかった。実際にエルサレムを滅ぼしたバビロンはイスラエルの北方の国であった。また旧約時代の民の歴史において様々な悪が北から持ち込まれた。カナンの人々の信じる偶像の神々は北の聖なる山に住んでいると信じられており、北はしばしばイスラエルにとっても悪が潜んでいる場所であった。北の方角に向かう馬が特別に最後に言及されている。この戦車の役割は神の霊を北にとどまらせることであった。悪の潜む地であり、多くのイスラエルの民が捕囚として連行され、そこに住まう地に向けて神の霊が送られ、真っただ中に留まるのである。

 これから起こる神の回復の業に先立ち、神はご自分の霊を地の果てに送られ、神の御業があらわされる準備をととのえていてくださる。主が救いと回復の業を始められる時、その準備から主導して行わるのは神ご自身である。私たちは主を信頼して祈り、主を待ち望み、時が来たら与えられた奉仕を行う。目を覚まして主の霊の働きを見つつ、私たちの責任を果たそう。

 

2021/10/13(水) 担当 高谷清師 コロ4:10-13: 新賛美 新聖歌 373

 パウロは「あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。わたしは証言しますが、彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスの人々のために、非常に労苦しています。」と記している。エパフラスはコロサイの教会に仕える牧会者であった。彼はコロサイの聖徒たちが、完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っていた。また、彼は聖徒のために非常に労苦していたのである。教会は常に危険にさらされている。イエスは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハ 10:11)と語っておられる。パウロも「日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」(Ⅱコリ 11:28-29)と述べている。

 自衛隊は一日24時間曜日平日祝祭日を問わず侵略に対する監視を行っており、侵入の恐れがあればスクランブル発進を行って安全を確保している。2019年度の回数は947回行われている。そのことを国民は知らない。教会もまた常時世的、霊的危機にさらされており、牧会者はそれに対処しているのである。牧会者のために祈ろう。

 

2021/10/14(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書6:9-13 賛美 新聖歌315

 直前にある最後の幻は神の霊の働きについて語り、それに関連してこの部分が記されている。一方、これは3:8-10の内容と一対になってもいる。3章でも若枝について述べられており、そこでは大祭司に石を渡したが、ここでは政治の指導者に対して王冠をかぶらせる。捕囚の人々から金と銀が差し出されるが、ゼカリヤは神の言葉に従って躊躇なく受け取る。そしてペルシャの王によって委任を受けてこの地の支配を命じられたゼルバベルの頭に冠を置くのである。ゼカリヤの一存によってなされるのではなく、その背後には確かな神の命令があるからこそ、預言者はためらうことなく実行する。これは政治的な行為ではなく、これから行われる神の御業の告知であった。

 神の言葉に基づいていることを忘れて表面的に預言者の行為を見れば、世の支配者に屈するように見える。しかしその背後にある神の導きをしっかりと見、ゼカリヤの宣言を注意深く聞く者にとってはすでに燭台とオリーブの木について語られた神のメッセージが伝えられていることを知る。背後に働く神の御業を見わけるよう、しっかりと神の言葉を聞こう

 

2021/10/15(金) 担当 高谷清師 詩 64:4-5  賛美 新聖歌 444

 「わたしを隠してください/さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。」と祈った詩人は、さいなむ者・悪を行う者について「彼らは舌を鋭い剣とし/毒を含む言葉を矢としてつがえ/隠れた所から無垢な人を射ようと構え/突然射かけて、恐れもしません。」と語る。詩編の時代にも言葉が気に入らない、あるいは利害が対立する相手を害し、追い落とすために使われたことが分かる。今日も政治的駆け引きから子供たちのいじめまで、言葉が使われ、多くの人々が苦しめられ、不利益を蒙り、死に追いやられるものも少なくない。ソーシャルメディアの発達した今日においてはその影響は当時の比ではない。先日報じられたケースでは授業に使われるタブレットが媒体として使用されたと言われている。人が自らの考えを述べることは大切であるが、その発言には十分に責任を持つことが求められる。裁きを招かないために。

 

2021/10/16(土) 担当 高谷清師 コロ4:15-17 賛美 聖歌 543

 パウロは「アルキポに、「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」と伝えてください。」と語っている。フィレモンへの手紙では「姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。」(フィレ 1:2)と述べている。これらのことからアルキポはコロサイの教会に仕える伝道者であったであろう。テモテへの手紙二においてもパウロは若い伝道者テモテに対して「しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(Ⅱテモ 4:5)と訓戒している。立場、老若にかかわらず、キリスト者は常に御言葉に親しみ、御言葉の前に立ち、身を正して仕えることが求められる。