2018/1/1-6

2018/1/1(月) 担当 高谷清師 ヨハネ ヨハ 6: 60-71 賛美 新聖歌 339
 イエスが「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」と語られたのを聞いた弟子たちの多くの者が「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」とつぶやいた。これに気付かれたイエスは「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。」と語られる。信仰の前進のためには克服するべき多くのハードルがある。ぺトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と、素晴らしい信仰告白をした。しかしその後イエスがご自分の受難を予告されると「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」とイエスをいさめ、イエスから「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と叱責されている。更に「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったぺトロはイエスの裁きの時、イエスを否認した。ぺトロは悔い改め、復活されたイエスがぺトロとお会いくださり、ぺトロは回復された。信仰の一つのハードルを越えたと思うと目の前にはさらに高い峰が立ちはだかっている。それらのハードルは主の導きと聖霊の助けによって一つ一つ克服されていくのである。主に信頼しつつ前進しょう。

2018/1/2(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書17:19-27  賛美 新聖歌343
 この警告もまた今まで語られてきたのと同様に民が聞き従わず、耳を貸さなかったという不従順が前提となっている。古い時代からイスラエルは不従順であり続けた。何度預言者を通して語られてもなお民は聞き従わなかったが、それは日々追加されていく新たな命令に従いきれなかったという訳ではない。ここで語られている「安息日を聖別しなさい」(17:22)という命令は出エジプトに続く荒野の時代に与えられた十戒の一つである。どれほど長い間神との関係に歩んでいる民でも常に基本に立ち返ることが求められる。最初に与えられた戒めが神と民との関係を正しく保つために重要なのである。
 私たちの信仰生活も同様である。神との関係に生きるという時、それは何か新しい従順を求められているのではない。常に基本に立ち帰って変わることのない神の命令に従うことが大切である。

2018/1/3(水) 担当 高谷清師 ヨハネ6: 6:60-71 賛美 新聖歌 34
 主は「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」と語られる。パウロは「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(ロマ 1:17)と述べている。更に「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」(?コリ 5: 16)と述べている。贖いの御業は神の独り子が肉体をとり、人となり、私たちのすべての罪を負い、十字架に架かり、肉を裂き、血を流し、死んで葬られ、死に勝利して甦ることによって成し遂げられた。この福音は肉によって知るだけでは私たちに救いをもたらすことはできない。聖霊の助けによって、信仰によって受け止める時、永遠の命を与えるのである。常に信仰によってキリストを知る者となろう。

2018/1/4(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書18:1-6  賛美 新聖歌166
 器を作る陶器師の姿を通して語られるこの部分は、よく知られ、好まれる箇所である。陶工の家という情景から感じ取るのは柔らかく、優しいイメージである。しかし注意深く読むならばここには優しい神の姿よりも、すべての創造者でありすべてに対して権威を持っておられる神の姿である。当時エレミヤが語った言葉を人びとは真の神のことばとして受け取らず、さらに神のことばは実現しないと侮っていた。それに対してここでは、神は陶工が作品にすべての責任と権威を持っているように、造られた民が神の御心に背き続けるならば、神は彼らを滅ぼして新しく造りかえる権威を持っておられるという。
 この言葉を聞くときに神が被造物である私たちに絶対的な権威を持つお方であること、また私たちが神を意のままに操るのではなく、神が私たちを導かれることを思う。主の主権と権威を認め、主の言葉を侮ることなく歩もう。

2018/1/5(金) 担当 高谷清師  詩編詩 36:6-10 賛美 新聖歌 282
 2−5節において「神に逆らう者」について語ったダビデは、この箇所において讃美の形で神について語る。この両者についてA. ヴァイザーは「二つの異なる姿勢を特徴づける考え方の本質的な相違が示されている。すなわち、一方は人間中心的な考え方であって人間を中心に据え、他方は徹底的に神の側から規定される神中心的な考え方である。考え方のこの断絶によって、罪と信仰は始めから常に分けられている。」(A. ヴァイザーATD旧約聖書註解詩篇上P400 ATD・NTD聖書註解刊行会1983)と述べている。パウロは「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(?コリ1:21)と述べている。イエスは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハ 3:16-18)と語っておられる。更にヘブライ人への手紙は「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブ 11: 6)と述べている。人間中心の歩みにおいては神を知ることはできず、神に喜ばれることはできない。信仰によってのみ、神を知ることが出来、神に喜ばれることができるのである。信仰によって歩もう。

2018/1/6(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 8:1-3 賛美 新聖歌 438
 主イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、旅を続けておられました。そしてその宣教には十二人の弟子たちと悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たちが同行していました。彼女たちは信仰と献身によって主の働きを支えたのでした。彼女たちの働きは地味な影の部分の働きでしたが、不可欠なものでした。私たちも、与えられた働きが目立つ働きであれ目立たない働きであれ、心を込めて仕えましょう。”,,686″