2019/5/20-25

2019/5/20(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:12-17 賛美 新聖歌 216

 弟子たちの足を洗い終えられた主は上着を着て、再び席に着いて語られる。「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」と。『先生』であり『主』であられるイエスが世で最も卑しいとされる足を洗う働きをされたのである。足を洗う、それは「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」と記されているように、イエスの、弟子たちへの愛の現れであった。その愛の現れは十字架において極限に達する。更に、イエスは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハ15:13)と教えておられる。互いに足を洗い合うーそれは聖霊に導かれ、十字架の愛に満たされることによってのみ、可能となる。
 
2019/5/21(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書5:3-7  賛美 新聖歌216
 祭司だけではなく、イスラエルの民全体の罪が指摘される。人は罪を犯す時、神から隠れようとする。しかし神はすべてを見ておられ、御存じである。イスラエルは罪を犯し始めると、自分の罪に無感覚になり、さらに罪を重ねていく。その結果神との距離はより広がり、自ら神に立ち返る望みも失われていく。それゆえ自らの高慢によって更なる罪の深みに落ち込み、民全体が共に神から離れていく。そのような状況において神も民から離れ去られる。民は自分の罪に無感覚になり、その心はさらに神から遠ざかる。にもかかわらず、民は相変わらず儀式を通して形通り手順を踏んで神に近づこうとする。
 一度罪に陥った状態の恐ろしさを見る思いである。決して定められた祭儀を通して神に近づこうという努力を否定したり、軽視したりしているわけではない。しかし気づかぬうちに心が罪に陥り、神から遠く隔たるとき、手順を踏んだ既定の祭でも神に受け入れられるものではなくなる。聖霊の守りのうちに、常に主と心が結ばれて歩ませていただこう。
 
 

2019/5/22(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:18-20 賛美 新聖歌 214

 イエスは「わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。」と言われる。この晩餐の席に共に坐する者の中にご自分を裏切る者がいることをイエスはご存知であった。彼もまたイエスの選ばれた者であった。イエスによって選ばれ、イエスのパンを食べている者―イエスと親密な関係を持っている者がイエスを裏切ろうとしているのである。更に、イエスが捕えられた時、すべての弟子たちがイエスを捨てて逃げ去ったのである。この意味においてはイエスに選ばれた者すべてがイエスを裏切ったのである。サタンに服し、意識的にイエスを裏切ったユダのみならず、他の弟子たちも自らの弱さの故にイエスを裏切ったのである。しかしイエスは十字架においてすべての人の贖いの御業を成し遂げ、死んで葬られ、甦り、弟子たちを受け入れてくださった。事が起こったとき、十字架、復活、昇天、聖霊降臨、終末、再臨の時、『わたしはある』即ちイエスは神であるということを、あなたがたが信じるようになるためである。十字架に顕された神の愛が人に信仰を得させ、救いを得させるのである。
 
2019/5/23(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書5:8-15  賛美 新聖歌183
 ギベア、ラマ、ベト・アベンなどのエルサレムからサマリアへの街道沿いの町々で鬨の声を上げよと言われる。戦争が目の前に迫っている。それは懲らしめの日である。その時に民は誰に助けを求めるのだろうか。彼らは神ではなく、異邦人であるアッシリアの大王に助けを求める。しかし神の御心に適わないときに、どこからも助けはやって来ない。救い出す者は皆無である。神はこの時、彼らに憐みを示さず、救いの手を差し伸べない。ただ立ち去り、ご自分の場所に帰られる。それでも神は彼らを憎み、喜んで苦しめられたのではなかった。彼らが立ち返り、神を尋ね求めることをなお待っておられた。
 わたしたちは自分が神の前にどのような状態であるかにかかわらず、神に助けを求めたときにはいつも即座に助けていただけることを期待する。しかし神は時として私たちが神との関係を正し、悔い改めて神に立ち返ることをじっと待っておられることがある。主の前に生きる者として、クリスチャン生活の外形を整えることではなく、神との正しい関係において歩むことを第一としたい。
 

2019/5/24(金) 担当 高谷清師  詩 44:24-27 賛美 新聖歌 445

 続く苦難のなかでも神は過去においてあらわされた御業は行われず、沈黙を守っておられる。そのような状況下においても民は信仰を言い表し続けた。そして最後に「立ち上がって、我らをお助けください。我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。」との祈りをもってこの詩を閉じる。パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリ 2:6-11)と述べている。またイエスは「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタ 10: 22)と教えておられる。約束された栄光を望み、試練と苦難の中に在るとしても信仰を全うしょう。
 

2019/5/25(土)担当 高谷由紀子師 マタ 5:13 賛美 新聖歌 428

 イエス様は弟子たちに「あなたがたは地の塩である。」と語られました。塩は食品の腐敗を防ぎ、良き味付けをします。また、人の生命維持のために不可欠なものです。塩が塩気を失えば何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。キリスト者も表立つ存在ではありませんが、世の腐敗を防ぎ、社会には無くてはならない存在です。もしキリスト者が真理から離れるなら、それは何の役にも立たないものになり、捨て去られます。しっかりと信仰に立ち、使命を果たせるキリスト者になりましょう。