2019/5/27-6/1

2019/5/27(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:21-30 賛美 新聖歌 210

 弟子たちの足を洗い終え、彼らに話し終えられたイエスは心を騒がせ、「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と語られた。イエスは洗足の前に、悪魔がイスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていたことをご存知であった。しかしイエスはユダの足を洗われた、即ち、ユダを愛して、この上なく愛し抜かれたのである。イエスのパンを食べ、イエスに愛し抜かれた者がご自分を裏切ろうとしており、それはイエスの注がれた愛によっても止め得ないものであることの故にイエスは心を騒がせられたのである。かつて、ラザロを捕らえた死に対して心に憤りを覚えられたように。パウロは「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」(?コリ15:56)と述べている。イエスはやがて起こる十字架と復活によって信じる者を罪から解放し、死を滅ぼされるのである。
 
2019/5/28(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書6:1-3  賛美 新聖歌183
 多くのクリスチャンの印象に残る美しい悔い改めの詩である。主イエスの十字架の死と三日目の復活によって罪を赦されたクリスチャンはこのホセア書の詩を読むとき、神の赦しの恵みを思い起こしつつ感動と感謝をもってこの歌を口ずさんできた。教会で愛された賛美にもこのみ言葉を歌詞としたものがある。私たちはキリストの恵みの業が完成された時代において感謝をもってこのみ言葉を用いて賛美する。しかしホセア書ではこの悔い改めの歌は受け入れられなかった。5:15で神はご自分の場所に戻り民の悔い改めを期待された。そして民が歌いだした歌の中で民は自分の罪を認め、主のもとに立ち返ろうと真剣に決断した。しかし、当時の人々が、神が三日目に立ち上がらせてくださるとうたったとき、彼らは真の神ではなく、またもや偶像礼拝の儀式を考え、異教の神を心にとめていた。民はここでも自分たちが知ろうとしている神がいつの間にか真の神ではなくなっていることはおそらく自覚していなかっただろう。偶像礼拝はこのようにして人々の心に汚水がしみこむようにじわじわと侵入する。
 今日、このみ言葉を読むとき、私たちは本当に生ける真の神を礼拝しているか、神のみ言葉に照らして確認しながら賛美をささげよう。美しい言葉と真面目な祈りが神に喜ばれるものとなるように。
 

2019/5/29(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:21-30 賛美 新聖歌 225

 イエスが「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と語られると一瞬、沈黙がその場を支配した。ぺトロの合図を受けてイエスの愛しておられた者が「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。ユダはパン切れを受け取ると、自分の計画を実行するためにすぐ出て行った。夕食のとき、既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。そしてパン切れを受け取ると、自分の計画を実行するためにすぐ出て行ったのである。ジョン・C・ライルは「私たちに及ぼされる悪魔の力と支配には段階がある。もし、その最初の誘惑に抵抗しなければ、悪魔はついには私たちの魂のあらゆる部分について余すところない完全な領有を勝ち取り、そして、私たちをとりこにして引き行き、彼の奴隷にしてしまうのである。これがユダのたどった経緯であったと思われる。すべての背教には、漸進的な段階があるのである。」(ライル福音書講解ヨハネ3聖書図書刊行会1987305)と述べている。私たちは聖霊の光の中で常に自らを吟味し、罪の芽を早い段階で摘み取ることを心掛けるべきである。
 
2019/5/30(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書6:4-6  賛美 新聖歌
 先日、5/28()のデボーションに違和感を持った方も多かったかもしれない。この美しい信仰告白がなぜ否定されるのかと。ところが今日の6:4-6を読むと神ご自身がこの賛美を拒まれたことがわかる。民のこの美しい賛美を受けての応答は、民に対する失望と落胆の言葉であった。3節での美しい春雨の露が4節では朝の数時間そこにあってもわずかの間に消え去る頼りないものであるとされる。このような、移ろいやすい、うわべだけの悔い改めにとどまっている民を神は滅ぼすと言われる。民はその一瞬において真剣であったかもしれないが、それが悔い改めを促す異教の祭の雰囲気において高揚した気分によるものであったがゆえに、神は気分的な悔い改めを良しとはされなかった。
 真実の悔い改めは一人神の前に座し、義なる神の前に立つ者としての自分を顧みるときに持つことができる。
 
2019/5/31(金) 担当 高谷清師  詩 45:1-3 賛美 新聖歌 165
 A. ヴァイザーはこの詩篇に「王の婚礼の歌」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P20)という表題を掲げている。また小畑進師は「戴冠式だとか、即位式、結婚式となると、筆達者な第一級の記者が特派されて、腕の見せどころとばかり、名記事を仕上げます。今、この宮廷詩人は、王の婚儀を前にして、詩人冥加というか、日頃練磨の文章を心中にわきたたせ、一世一代の盛儀を詠うべく、その一枚の舌は、巧みな筆さばきの書記の筆のように見事な描写をこころみようというのです。」(『詩篇講録上』いのちのことば社2007、P598)と述べておられる。彼は「わたしの作る詩を、王の前で歌おう。」と述べている。そしてこの王について「あなたは人の子らのだれよりも美しく/あなたの唇は優雅に語る。」と述べる。王の容姿は人間の中で誰よりも美しく、その言葉は誰よりも流暢である。それらは神の祝福によるのである。パウロは「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」と述べている。私たちは、自分には他人よりも優れたものが備わっているとしても、それをもとに高慢になったり、他者を蔑んだりしてはならない。善きものはすべて神の祝福によるからである。
 

2019/6/1(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 8:1-3 賛美 新聖歌 438

 主イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けておられました。この宣教の旅には12弟子たちと多くの婦人たちも同行し、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していました。婦人たちの働きは表立ったものではありませんでしたが、不可欠なものでした。

 私たちも、与えられた働きが目立たない、陰の部分の働きであったとしても、心を込めて仕えていきましょう。