2012/8/20-25

 

2012/08/20(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:7   賛美 聖歌196
 ここで「もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう」と言われていることに注意しなければならない。これは律法に欠陥があったという意味ではない。そうではなく、それに対応する人間に問題があるのである。律法を完全に守ることができる人は一人もおらず、それ故、律法はすべての人を死に定めたのである。これに対し、神は人に対する愛と憐れみによって御子を十字架につけ、贖いの御業を成し遂げてくださったのである。その恵みによって人に救いの道が開かれたのである。パウロが「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです(ガラ 3: 11)」述べているとおりである。
 このめぐみの御言葉を聞いた者の中から「主の恵みはすべての罪を赦すのであるから、自分たちは何をしてもよい、律法など尊ぶ必要はない」と考える不遜な者たちが現れたのである。しかし主は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。(マタ 5:17-19)」と語っておられる。今日も主の御言葉を尊ぼう。
 

 

2012/08/21(火)担当 高谷満世師 サムエル記下5:1-12 賛美 聖歌475
 ダビデは少年のときから神に選ばれていた。サムエルによって油を注がれてから神の選びのとおりにイスラエルの王となるまでに長い年月を要した。その間にはゴリアテとの戦いや、サウルのねたみ、戦い、友人ヨナタンの死、サウルが死んだ後でのイスラエルとの戦いなど、多くのことを経験した長い年月があった。しかしあらゆるときに神がダビデとともにおられて勝利を与え、ついにダビデはヘブロンで七年六ヶ月間治めた後に全イスラエルの王となった。彼はサウルとの血縁関係においても、神の選びにおいても、実質的な歴史的経過においても全イスラエルの王としてふさわしいと人々から受け入れられた。さらにダビデが王位についたとき、ティルスの王ヒラムも使節を送り、その即位を認めた。
 神のご計画がダビデをイスラエルの王とすることであると示されてから長い年月をかけてこの言葉が成就された。神が与えてくださる約束のあるものはすぐに実現するが、あるものは長い年月の後に実現する。しかし神は必ず約束を成就される。人は神のご計画のときを待ちきれなくなって手を出してしまいたくなる。しかしダビデのように信じて待つことが必要である。
 

 

2012/08/22 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:8-12 賛美 新聖歌18
 8節後半から12節はエレミヤ書31:31−34の引用である。奴隷であったエジプトからご自分の民を導き出された主は、シナイにおいてご自分の民に律法を与え、彼らと契約を結ばれた。その契約の本質は「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得るエレ 7:23)」と言うものであった。民がこの契約から離れようとする時、神は幾度もご自分の民に預言者を遣わし、警告を与えられた。しかし民はこの契約に忠実でなかったので、主も彼らを顧みられなかった。しかし主はそのような民をも捨て置くことをなさらない。神の愛はそうすることができない。「それらの日の後、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約」はこれであると、主は言われる。「それらの日の後」とはキリストの時代を指し、「イスラエルの家」とは神の民全体である。わたしたちは御子によって与えられた恵みの契約の中に入れられているのである。パウロが「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる(ロマ 9:25-26)」と言っているとおりである。
 

 

2012/08/23(木)担当 高谷満世師 サムエル記下5:13-25 賛美 聖歌480
 ダビデは今や全イスラエルの王になった。そのダビデについて、まず多くの息子や娘たちがエルサレムで生まれたことが記されている。ダビデはイスラエルの王となってからも神の祝福を受け続けている。さらに、そのダビデの即位を聞いたペリシテがダビデに向かって攻め上ってきた。ダビデは全イスラエルの王としての力を持ち、強大な軍隊を持ったこのときにもやはりまず戦いについては自分の意思によって行動するのではなく、神に託宣を求めた。そしてペリシテとのこのときの二度にわたる戦いも、主の言葉のとおりに行い、勝利を得た。
 人は権力と地位を手に入れると自分にはすべてが可能だという錯覚に陥りやすい。しかしダビデは謙遜であった。そして以前と変わらず、神の御心をたずね求め、それにしたがって行動した。神を信じて従うときにこそ豊かに祝福される。謙遜に主を第一として歩もう。
 

 

2011/08/24(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:8-12   賛美 聖歌414
 この箇所において新しい契約について述べられている。その第一は「わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう」と言うものである。エレミヤと同時代の預言者エゼキエルは「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる(エゼ 11:19-20)」と語っている。主イエスは「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる(ヨハ 16:13)」と語っておられる。わたしたちは今、聖霊の時代に生かされている。聖霊は私たちの内に住み、わたしたちをあらゆる真理に導いてくださる。聖霊に従順に歩む時、真理を踏み外すことはない。今日も聖霊に従って歩もう。
 

 

2012/08/11(土)高谷由紀子師ヘブライ人への手紙 12:1-3 賛美 聖歌516
 先日閉幕したロンドンオリンピックにおいてわたしたちは目標に向かってひたすら邁進する多くの競技者の姿に接し感動と励ましを受けました。クリスチャン生涯もこれらの競技者に似ています。わたしたちクリスチャンは目標である御国を目指して日々歩んでいるのです。そのためには障害となるもの―すべての重荷や絡みつく罪―をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜かなければなりません。しかしそれは長い年月にわたるものであり、時には気力を失い疲れ果ててしまう危険にさらされています。そのような時、わたしたちにはわたしたちをはるかにしのぐ試練―恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍ばれた―主のみ姿を仰ぐことができます。このお方を見上げる時わたしたちの内には新しい勝利の力がそそがれるのです。今日も主を見上げて進みましょう。