2012/8/13-18

 

2012/08/13(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:1-6   賛美 聖歌545
 著者は私たちの大祭司の特徴について述べる。その第一は「天におられる大いなる方の玉座の右の座に着」かれたお方である。これについて著者は既に「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。(ヘブ 1:3)」と述べた。レビの系統の祭司たちが天にあるものの写しであり影であるものに仕えていたのに対し、わたしたちの主は父なる神の右の御座に在って、私たちのために執り成してくださるのであり、それ故、その執成しは確実の神に受け入れられるのである。主は「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない(ヨハ6: 37)」と語っておられる。主にあって大胆に神に近づこう。
 

 

2012/08/14(火)担当 高谷満世師 サムエル記下3:21後半-39 賛美 聖歌503
 ダビデは神に油注がれた者であった。少年のときに油を注がれてから、サウルの前に登場し、ペリシテ人ゴリアテと勇敢に戦い、サウルに命を狙われて逃亡しながらも、サウルを神に油注がれた者として最後まで敬意を持って接した。自分の命を狙うサウルに対してさえその態度を失わなかった。ダビデとともに常に神がおられた。まさにダビデは神に選ばれた理想的な人物であり、その選びにも慢心することなくへりくだって神に仕えてきた。すべてが順調で、完璧な人のように見える。しかし、ここでそんなダビデにも手に余る懸案があったことを知らされる。戦いにおいてアブネルに弟の命を奪われたヨアブが、ダビデ王の意に反して報復を行い、アブネルの命を奪ってしまった。このときダビデはこれを良しとせず、ヨアブの死を悼んだ。そして39節ではツェルヤの息子たちに対するダビデの無力感が吐露されている。
 神に選ばれたダビデであっても、その弱さを抱えていた。懸案を抱えていた。私たちも弱さがあるままで神に仕えていける。その弱さを自分で抱え込まず、神に差し出すときに、神の助けと力が与えられる。主により頼もう。
 

 

2012/08/15 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:1-6 賛美 聖歌591
私たちの大祭司の特徴の第二はレビの系統の祭司たちが「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われた通りにモーセが建てた幕屋―天にあるものの写しであり影であるものに仕えていたのに対し、「人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられる」お方であるということである。このことは主が十字架上で息を引き取られた時に起こって出来事を想起させる。マタイは「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、(マタ 27:50-51)」と記している。主イエスが十字架で流された血潮と捨てられた命によって、それを信じる信仰によって近づく者に御国は開かれたのである。
 

 

2012/08/16(木)担当 高谷満世師 サムエル記下4:1-12 賛美 聖歌487
 ダビデが全イスラエルの王となるまで、長い道のりが続いている。ここでも血なまぐさい事件が記されている。べエロとはカナン征服時代にイスラエルによって滅ぼされずに残った四つのカナンの町の一つであった(ヨシュア9:17)。この神を恐れない二人の兄弟バアナとレカブは自分の功績が認められると考え、ダビデの元に堂々とイシュ・ボシェトの首を携えて来る。これに対してダビデはサウルの死の報をもたらした男以上に厳しい態度でこの二人の罪を指摘し、二人の命を生かしてはおかなかった。この二人は大きな罪を犯した。しかしこのような神を恐れない人々の行為さえも、ダビデが王になるためになすべきことをなすために用いられた。
 神に敵対するものをさえ、神はご自身の計画が進められるために用いることができる。私たちは起こること一つ一つの中に人間の罪を見極め、それを容認することがないようにすると同時に、あらゆることを用いられる神の働きにも目を留めたい。
 

 

2011/08/17(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:1-6  賛美 聖歌438
 著者は「しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです」と述べる。「真の幕屋」での務めが優れているのは、どんな衝撃が来ても大祭司的保証人の地位が神の誓いによってイエスに保証されているからである。パウロは「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。(ロマ 8:35-37)」と言っている。
 

 

2012/08/11(土)高谷由紀子師マタイによる福音書7:24−277 賛美 聖歌500
 家を建てる時に大切なのは土台である。確かな、しっかりした土台の上に建てた家は嵐やそのほかの災害に強い。しかし弱い土台の上に建てた家は、見栄え良く建てたとしても、災害に遭うと倒れてしまう。イエスはこの例えをもって、堅い岩の上に土台を据えた人を賢い人、砂の上に土台を据えた人を愚かな人と言われた。そして主は、主の言葉を聞いて行う人こそ賢い人であると言われた。わたしたちは何に人生の土台を置いているであろうか。神の言葉を聞いて行うことこそ人生に勝利する道である。