2021/10/18-23

 2021/10/18(月) 担当 高谷清師 コロ4:18 賛美 新聖歌 437

 ここにおいてパウロは筆記者からペンを受け取り自分の手で挨拶を記す。自筆の挨拶はパウロと読者との間を縮め、互いの心の交わりを生み、温かさ、愛を生じさせた。パウロは「わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください。」と記す。この言葉について橋谷英徳師は

「このような言葉が結びに述べられるのは異例のことである。この意味は何であろうか。私のことを覚えて祈って欲しいと、個人的な願いを願っているのであろうか。そうではない。パウロは、「苦しむ使徒としての自分の権威を印象づけるために、拘束された自分の手を差し出して見せた。哀感ではなく権威が、彼が鎖によって示したしるしである。この呼びかけが誘い出そうとしたものは承認と従順であって、同情ではない」(マーティン)」この洞察は深い。感傷的(センチメンタル)なものはここにはどこにもなく、むしろ、勝利の確信であるであるというのである。自分がキリストの使徒であることを、静かにここでも、鎖を掲げることによって示している。ここにもまた1:24で語られた言葉が響いている。感傷的なものを乗り越える、それが今日の私たちの教会の課題ではないであろうか。「承認と従順」は今日の私たちにも求められて、私たちの教会もここに招かれている。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)。この主イエスの言葉が聞こえてくる。(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P291292日本基督教団出版局2012))

と述べておられる。世はあらゆる手段、方法を用いて福音の前進を阻もうとする。主の言葉を内に堅持しつつ、進もう。

 

2021/10/19(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書6:14-15 賛美 新聖歌251

 象徴的な儀式の後で王冠は主の神殿に置かれた。この王冠はやがて訪れるメシアの新しい時代を思い起こさせる。実際にこの来るべき若枝が誰であるのかは人々に明確に示されないまま、この王冠は神殿が再建されて以来400年もの間そこに置かれ続ける。その間イスラエルの人々は「来るべき方」は誰かを模索し続け、時には「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(マタイ11:3)と問い続けた。彼らがどのような態度でこれを待ち続けるべきなのか。それは15節にある通り、ひたすら彼らが神である主の声に聞き従うことであった。ただ単に成り行きに任せて、なるようになれという態度で日々を過ごすのではなく、約束を下さった神に信頼を置いて主の言葉に聞き従うことが求められ続けた。

 神様の時、救いを待つということは時流に流されて無責任に時を過ごすことではない。神に望みを置いて生きる人々はいつも積極的に神の言葉を心に留め、聞き、従いつつ待ち望むのである。

 

2021/10/20(水) 担当 高谷清師 コロ4:18: 新賛美 新聖歌 343

 パウロは「恵みがあなたがたと共にあるように」という祈りをもってこの手紙を閉じる。冒頭の挨拶において「:神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ぼれている忠実な兄弟たちへ。 わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」と述べた。ヨハネは「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」(ヨハ 1:17)と述べている。恵みはイエスにおいて、とりわけ十字架において明確に啓示された。パウロは「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ロマ 3:24)と述べている。罪によって死んでいた者がキリストの十字架の贖いの恵みにより義とされる、永遠の命に入れられるのである。この恵みから決して離れることの無いようにしょう。

 

2021/10/21(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書7:1-7 賛美 新聖歌366

 北の町ベテルからあるグループがエルサレムに送られ、神殿での断食について尋ねている。神殿において行われる礼拝や祭儀について語られていく。神の答えは民が折に触れて断食を行ってきたことを認めている。その断食はきちんと形が整っていた。神が問われることは神の言葉に従って民が断食を続けた時、それは誰のために行ってきたのかという点であった。彼らの礼拝において彼らは神の御心を行っているのか?祝祭における犠牲の宴において飲み食いして満ち足りているのは彼ら自身なのか、神なのか?さらに一歩踏み込んで神は彼らがこのような礼拝の行為を彼ら自身のためにしてきたにすぎないと指摘される。

 断食をし、犠牲をささげて礼拝することは神から与えられた律法と規定に従うことであった。それに従って正確に行うことは大切であった。しかし神が見られるのは儀式の正確さ以上のものがある。それは預言者たちによって何度も語られてきた。礼拝は形を整えるべき儀式以上のものである。私たちの心はどこに向け、誰を満たしているのだろうか。神が見てよろこんでくださる礼拝を私は今日ささげているだろうか。

 

2021/10/22(金) 担当 高谷清師 詩 64:6-7  賛美 新聖歌 315

 詩人は「さいなむ者」「悪を行う者」について」「彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け/「見抜かれることはない」と言います。巧妙に悪を謀り/「我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す」と言います。」と語る。イエスは終末の徴について「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。」(マタ 24:24)と教えておられる。パウロは偽使徒について「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。」(Ⅱコリ11:13-15)と述べている。またヨハネは「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」(Ⅱコリ11:13-15)と述べている。この問題についてイエスは「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と教え、ヨハネは「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。」と述べている。更にパウロは「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。」(Ⅱコリ2:15)と述べている。み言葉に立ち、聖霊に従って真理に歩もう。

 

2021/10/23(土) 担当 高谷清師 Ⅰテサ 5:16-18 賛美 新聖歌 302

 1020をもってコロサイの信徒への手紙を読み終えた。コロサイの信徒への手紙においてパウロは「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」と命じている。この節によって改めて祈りの重要性を認識させられたのである。そこでしばらく土曜日の本欄において祈りについて学んでみたい。本日のテキストにおいてパウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と述べている。この箇所について八十川昌代師は「信徒の喜びの源は「祈り」にある。祈りにおいて、神に寄り頼む生活の中で、「感謝」が生まれる。この連環の中で、「神があなたがたに望んでおられること」が現実となる。」(アレテイア一一釈義と黙想 ガラテヤの信徒への手紙、テザロニケの信徒への手紙I2、テモテへの手紙l2テトスへの手紙P128日本基督教団出版局2002))と述べておられる。神があなたがたに望んでおられるクリスチャン生活を歩む力の源は絶えざる祈りにあるのである。日々、祈りに励み、神の力に満たされて歩もう。