2021/10/25-30

 2021/10/25(月) 担当 高谷清師 Ⅰテモ 1:1-2 賛美 新聖歌 391

 この箇所にはこの手紙の差し出し人、宛て名、挨拶が記されている。差出人であるパウロは自分を「わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロ」と述べて自分が使徒であることを宣言している。それは「使徒」とは「生前、地上を歩まれた主イエス・キリストに召され、寝食を共にして、主から親しく教えと薫陶を受けたもの」と解されていたからである。しかしパウロは生前のイエスに従わず、初期教会の迫害者であった。エルサレムにおける弾圧に目途を付け、ダマスコに居る聖徒を迫害するために大祭司のダマスコの諸会堂あての手紙を携えて急ぐ途上、ダマスコ郊外において復活のキリストに出会い、劇的な回心を遂げてキリスト者となり、召されて使徒となったのである。

 使徒たちがそうであったように、それ以降の真に主に仕える者たちは、その職を自ら選び取ったのではなく、全て神の召しに応答して自らを献げ、神の働き人とし立てられたのである。ここに聖徒たちが神に立てられた働き人に従順であるべき根拠がある。

2021/10/26(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書7:8-10 賛美 新聖歌201

7:5-7で民に臨んだ主の言葉は彼らの礼拝と断食が心から神に向けてささげられておらず、形式だけを整えながらも自己中心に生きる人々の罪を指摘するものであった。続く7:8-10には別の主の言葉が記されている。ここでは民が神に礼拝をささげるという霊的生活の確信から離れた日常生活のあり方が指摘されている。愛と慈しみに満ちた神を信じる人々の生活の中には神の御性質が反映された生き方が実となって表れるはずである。それは一般社会で言われる道徳的な生き方というものである。神の正義と真理に基づいて生きる人の態度には現実生活で自分の周りで共生する人々の中にいる弱者をいたわり、助ける姿が必然的ににじみ出るはずではないか。
 このメッセージはイザヤやホセア、エレミヤなど、多くの預言者が伝え続け、罪として指摘し続けてきたものである。神(キリスト教)は単に表面的な人生訓として道徳的であれと勧めているのではない。神が正義と真理に満ちたお方であり、愛と慈しみのお方であるからこそ、その神の栄光をあらわす信仰者の歩みにおいてそれが実行されないことが罪であると語られているのだ。私たちの生き方に社会的弱者や兄弟姉妹をいたわる神の愛が反映されているだろうか。

2021/10/27(水) 担当 高谷清師 Ⅰテモ 1:1-2 新賛美 新聖歌 384

 この手紙の宛て名はテモテである。テモテについてパウロは「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。」(フィリ 2:20-22)と述べている。イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタ 16:24-25)と教えておられる。
 キリストに従い仕える者は、私心を捨て、キリストの心を自分の心として御言葉に生きることが求められる。み言葉を読んで自分に都合の良い所は喜んで受け入れるが、都合の悪いところは無視するという態度はキリストに従い仕える者にはふさわしくない。

2021/10/28(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書7:11-12 賛美 新聖歌366

 神の御性質が反映された愛と慈しみに満ちた生き方を行いによって示しなさいとの勧め(7-9-10)に続いて、民は意図的に耳を傾けることを拒んで神に背を向けて、心をかたくなにしたと言われる。まさか、神を信じて熱心に断食や礼拝を捧げている人々がこのような神に背く歩みをするだろうか、と私たちは言いたくなるかもしれない。現代でも日曜日には礼拝を捧げ、様々な奉仕を担い、積極的に献金を献げる人は熱心なクリスチャンであると考えられる。実際に群れにおいて役を担う人は日常生活の面においても人々から尊敬される人でなければならないと聖書は教える。ゼカリヤ時代の民も熱心に神に礼拝をささげるという形式を守っていたが、ゼカリヤは激しい言葉で彼らの心がかたくなであるがゆえに神の怒りが激しく燃えたと語る。
 きちんと礼拝を守っていても、熱心に教会に通っていても、心が神から離れて、神の言葉を聞くことを拒む状態に陥ることがある。神が問われるのは、今のあなたの心と霊は神に向かって開かれているかということである。

2021/10/29(金) 担当 高谷清師 詩 64:8-9  賛美 新聖歌 458

 この箇所には「さいなむ者」「悪を行う者」に対する神の裁きが記されている。舌を鋭い剣とし/毒を含む言葉を矢としてつがえ/隠れた所から無垢な人を射ようと構え/突然射かけて、恐れなかった彼らに、神は矢を射かけ/突然、彼らは討たれる。悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け/「見抜かれることはない」と言う彼ら、 巧妙に悪を謀り/「我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す」と言う彼らは、自分の舌がつまずきのもとになり/見る人は皆、頭を振って侮るようになるのである。ぺトロは「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。」(Ⅰペト 4:5)と述べ、ヘブライ人への手紙の記者は「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、」(ヘブル 9:27)と述べている。人の言動はすべて神に知られ、神はそのすべての言動に対して裁きを行われる。人が見ていないとしても、神が今沈黙しておられるとしても、常に御前に在って真理の道を歩もう。

2021/10/30(土) 担当 高谷清師 黙3:20 賛美 聖歌 195

 この御言葉は神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいたヨハネに、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものの中に記されている、ラオディキアにある教会にあてた手紙の中に記されている一節である。この御言葉によるとキリストは私たちの心の戸口に立って心の扉をたたいておられる。それはキリストが私たちの心の中に入って共に食事をされる―親しい交わりを持たれる―ためである。キリストと信じる者との親しい交わり、これこそ祈りの本質である。そしてそれはキリストが求めておられることである。祈りの主導はキリストにある。私たちが美辞麗句をもって訴えることではなく、神に対して心の扉を開きキリストを迎え入れ、キリストと交わることである。