2021/11/1-6
- 2021.11.01
- ディボーションの友
2021/11/1(月) 担当 高谷清師 Ⅰテモ 1:1-2 賛美 新聖歌 18
パウロは神を「救い主」と呼んでいる。これについてカルヴァンは
「このご称号は、御子に帰されるのが一般的である。だがこのご称号は、御父にあらせてもおふさわしい。なぜなら、神は御子を我々にくださったお方なのだから。ゆえに、「我らの救い主」といった誉れあるご称号は、お二人に帰されねばならない。我々はどのようにして救われたのか? すなわち、御父は御子を通して、我らを贖い、そして救おうとされた。それほどまでに、御父は我々を愛してくださった。」(カルヴァン・新約聖書註解 テモテ・テトス・フイレモン書P16−17新教出版社2021)
と述べている。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16)と述べている。私たちの救いは父なる神が私たちに対する愛によって計画され、御子によって行われたのである。感謝しょう。
2021/11/2(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書7:13-14 賛美 新聖歌345
主の御声に耳を傾けなかった民に対する神の対応ははっきりと書かれている。神は彼らの声を聞かないと言われる。彼らが助けを求めても神はそれを聞かず、答えることはなさらない。ここに至るまで神は何度も預言者を通して心を開いて耳を傾けよと呼びかけ続けて来られた。しかし最後まで心をかたくなにして聞かなかった者たちに対してついにこの厳しい対応を宣言される。それでも人々はついに神が耳を傾けて下さらない現実に不満を言い、なぜ神が聞いてくださらないのかと怒り、落胆するだろう。
今の時代に私たちもこの民と同じ態度をとる危険性は隣り合わせである。なぜ神は助けて下さらないのか、なぜこのような試練に遭わせるのかなどとつぶやく一方で自分が神の語り掛けに心を閉ざしていることに気付かないでいるというような状態に陥っていないだろうか。聖書を読むときに都合の良い言葉だけを受け取るならば、それは本当に心を開いて神の言葉を聞いているのだろうか。
2021/11/3(水) 担当 高谷清師 Ⅰテモ1:1-2 新賛美 聖歌 236
続いてパウロは「わたしたちの希望であるキリスト・イエスト」と述べている。カルヴァンは
「パウロはキリストについて、「我らの希望」と呼んでいる。まさに、この呼ばれ方はキリストにおふさわしい。我々がキリストを見つめるとき、我々には希望が生れる。我々の救いの源は、御子お一人にこそあるのだから。」(カルヴァン・新約聖書註解??テモテ・テトス・フイレモンP17書新教出版社2021)
と述べている。ぺトロは「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4:12)と述べている。またパウロはローマの信徒への手紙において「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(ロマ 5:2)と述べている。私たちの望みは私たちの罪を負って十字架に架かり、血を流し、死んで葬られ、死に勝利して甦られたキリスト・イエスト以外にはないのである。
2021/11/4(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書8:1-8 賛美 新聖歌427
ゼカリヤは再び神がご自分の民になさることを描く。驚くことに、神は再びエルサレムの真ん中に住まい、この都を再建される。そこには年老いた者から子どもまでが喜び笑いながら過ごす平和な姿が見られる。各地に散らされた民をも救い出して連れ戻し、この町に住まわせると言われるのである。あまりに大きな変化にこのゼカリヤの言葉を読んでいる私たちも驚くほどである。そしてなぜ神は突然彼らを救い出すと言われるのかと聞かずにはいられない。ゼカリヤによるとそれは神ご自身の真実と正義に基づいているのである。民がついに神の御声を聞いたからではなく、深い悔い改めに導かれたからでもない。神ご自身が神であるがゆえに正義と真実を実現なさるから再び神による回復と平和が訪れるのである。
人は神の御手の中で生かされている。神の恵みを受けるに値する存在でないにもかかわらず、神ご自身の深い憐れみと恵みと正義と真実に基づいてその恵みの中に生かされているのである。これを知るときにただ主への感謝と畏れに満たされる。真実な神に感謝しよう。
2021/11/5(金) 担当 高谷清師 詩 64:10-11 賛美 新聖歌 394
記者は「人は皆、恐れて神の働きを認め/御業に目覚めるでしょう。」と詠う。エリヤとバアルの預言者が対決した時エリヤの祈りに応えて神が火を下された時の有り様を列王記上は「すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。」(列王上18:38-39)と記している。約束の聖霊が注がれ、聖霊を受けた使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのを見た人々の様子について「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。」(使 2:43)と記されている。神の御業が現れる時、人々は神を畏れ、御前にひれ伏す者と変えられる。主の栄光を祈り求めよう。
2021/11/6(土) 担当 高谷清師 黙3:20 賛美 新聖歌 409
神は「だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば」と語っておられる。「戸を開ける」とは、何を意味するのであろうか。イエスは「それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタ 16:24)と語っておられる。また、パウロは「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラ 2:19-2)と述べている。「戸を開ける」とは、自分を空しくしてキリストに明け渡す道、自己否定の道である。
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