2021/11/8-13

 2021/11/8(月) 担当 高谷清師 Ⅰテモ 1:3-7 賛美 新聖歌 388

 パウロは第三次伝道旅行の途次、三年間にわたってエフェソで福音を伝えた。アルテミス神殿をめぐる騒動の後、エフェソを去ったパウロはミレトスにエフェソの教会の長老たちを招いて

「わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。(使20:27-32)」

と語っている。パウロは自分が去った後、エフェソ教会に起こる困難に対処するため、最も信頼する愛弟子テモテをエフェソにとどまらせたのである。私たちの信仰生活には多くの困難な出来事が起こる。その時「神様、どうして?」と問いたくなる。しかし神はあなたを信頼して困難に対処する任務を与えておられる。同時に神は「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリ 10:13)と約束しておられる。神を信頼してすべての困難に立ち向かおう。

 

2021/11/9(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書8:9-13 賛美 新聖歌201

 8章の冒頭に記されているように神が再びエルサレムの真ん中に住まわれる時、民にとってすべてが変化する。神殿を再建するために働きが開始されて基礎が置かれたときからすでに神は再び民の上に祝福を注ぎ始めておられる。神が民に自然の祝福をもたらさず、敵の前に民をさらしておられた以前とは全く異なる状況に今民は置かれている。すべての創り主である神はまた自然をも支配し、自然を通して民に再び恵みを注がれる。だからこそ種をまく者は収穫を再び得る。

 罪のゆえに裁きを経験して、再び神の恵みの中に回復された人々は「勇気を出せ」(8:9)と呼びかけられる。それは民自身の能力によるものではなく、神が再び民に祝福をもたらし、かつての父祖に与えられた約束を思い起こさせてくださるからである。あらゆる状況において勇気を奮い起こすように語ってくださる神の真実を知り、頼り、主の恵みを疑うことなく前進しよう。

 

2021/11/10(水) 担当 高谷清師 Ⅰテモ 1:3-7 新賛美 新聖歌 458

 パウロが本テキストにおいて「ある人々」と呼び、使徒言行録において「残忍な狼ども」と呼んでいる者たちは異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりする。「作り話」の一つの例はイエスの復活に関して見られる(マタイ28:12-15参照)。またイエスの降誕物語等、人間理性を越えた神の御業を人間理性の範囲に閉じ込めようとしたり、逆に神の全能性、超越性を誇張しょうとする者たちによって流布されることが多いように見られる。ヨハネは「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。」(Ⅰヨハ4:2-3)と述べている。私たちは信仰により、御言葉に基づき、聖霊の導きに従って真理の内を歩もう。

 

2021/11/11(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書8:14-16 賛美 新聖歌247

 神はかつて民の罪に対して怒り、それはバビロン捕囚という経験において民が現実に見て体験することとなった。神に背き続けてきた民にとってこれは避けることが出来ない神のさばきであった。しかし今や神はその決意に代えて新たにエルサレムとユダの家に幸いをもたらす決意をされた。だからこそ民はもはや恐れる必要がなくなるのである。そしてこの恵みを受けた人々に新しい勧めの言葉が語られる。それは神の赦しと平安をいただいた民がお互いの間で真実を語り、正義を行い、誠実に歩むことである。神の赦しをいただいて再び歩み始めるこの民の共同体においては、与えられた神の恵みに基づいてそれを互いの間に実践していくことが必要なのである。神の正義が人と人との間で実行されていくときに、さらに神の恵みが確認される。

 神の恵みと赦しを受けた私たちはゼカリヤが勧めるように互いに真実を語り合い、平和をもたらす裁きを行い、心の中で悪を企まず、偽りの誓いを避けているだろうか。神の恵みの中に生かされている私たちだからこそ、聖霊の力によってこのような歩みに導かれて実践することが出来る。神と共に歩もう。

 

2021/11/12(金) 担当 高谷清師 詩 64:10-11  賛美 新聖歌 458

 さいなむ者、悪を行う者達は悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け「見抜かれることはない」と言い、巧妙に悪を謀り/「我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す」とうそぶいていた。それに対して詩人は「神は彼らに矢を射かけ/突然、彼らは討たれるでしょう。自分の舌がつまずきのもとになり/見る人は皆、頭を振って侮るでしょう。人は皆、恐れて神の働きを認め/御業に目覚めるでしょう。」と詠う。パウロは「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(ロマ 1:18)と述べている。空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊の支配下にある世に生きるキリスト者は多くの理不尽な苦難に遭遇する。しかし神はそれらの全てを知っておられ、必ず裁きを行われる。それが世に生存中であるか、世を去った後であるかは私たちにはわからないが・・・。み言葉に従い、いかなる時にも義の道を、信仰の道を歩もう。

 

2021/11/13(土) 担当 高谷清師 黙3:20 賛美 聖歌 501

 神は「だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば」と語っておられる。「戸を開ける」とは、何を意味するのであろうか。パウロはガラテヤの信徒への手紙において「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラ 2:19-20)と述べている。キリスト信仰とは聖書の言葉を用いた自我主張の補強ではなく、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、自分を無にして、僕の身分になり、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であられたキリストに倣う道である。