2019/3/25-30

2019/3/25(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:34 賛美 聖歌

 イエスの言葉に対して群衆は「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」と反論した。この箇所について船本弘毅師は「ユダヤ人たちはパリサイ派指導下にあるユダヤ教会特有の、民族的なメシヤ期待がそこにはあったと思われる〈シュルツ)。後期ユダヤ教の教義には、苦難のメシヤは存在せず、地上に永遠の支配を行なうメシヤが期待されていたのである。」(説教者のための聖書講解No31日本基督教団出版局198046)と述べておられる。また、「その『人の子』とはだれのことですか。」との反論についてカルヴァンは「このそのひとの子はだれなのかという問いには、噸笑の気持が込められている。まるでこの反問によって、キリストは当惑してしまい、もうなにも言えなくなるにちがいない、と言わんばかりの口ぶりである。これから見てもあきらかなように、無知はどんなに倣慢なものだろうか。それというのも、かれらはこう言ったのとおなじことだからである。さあ、いまは行って、勝手に自分はキリストだと吹聴するがよい。おまえは自分から白状して、メシヤと共通するものはなにももち合わせていないことが、暴露されたのだから、と。」((カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書下新教出版社1965422)と記している。私たちは謙虚に御言葉を学び、真摯に語る者でありたい。
 
2019/3/26(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書1:6-7  賛美 新聖歌284
 ホセアの二番目の子である娘をロ・ルハマと名付けよと神は命じられる。言葉の美しい響きとは逆に、神の憐れみを失うことを明言している。今や神とイスラエルとの親しい関係が失われようとしている。神は出エジプトの時代以来、憐れみ深く恵みに富み、忍耐強く、世代を超えて慈しみ守るお方であられた(出エ34:6-7)。しかし今イスラエルはこの神の慈しみを失う。一方南王国ユダからは憐れみは取り去られず、武力によらず、神の方法での彼らの救いが約束されている。ホセアを通して与えられたこの恐ろしい憐みの取り去りという宣言がどれほど真剣に受け取られただろうか。神の憐みによって長い歴史を歩んできた民としてこの事態を深刻に受け止められるはずの民は、心が鈍くなり、警告を聞き分けることができなかった。
 神の憐みを当然と思って享受し、神の裁きの警告も聞き逃してしまう関係に陥ることがないよう、日々主の恵みを思い起こし、感謝し、受ける資格のない私たちが大いなる恵みの中で生かされていることを喜ぼう。
 
2019/3/27(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:3536 賛美 新聖歌 456
 イエスは群集との議論にこれ以上深入りされない。イエスの地上の生涯の終わりの時―光が取り去られる時―は切迫している。地上に来た光は間もなく取り去られるであろう。その時、内に光を持たない者は暗闇のなかを歩くことになる。しかし、今光を信じる者は自分の内に光を持ち、暗闇の内を歩くことが無く、命の道を歩むのである。
 パウロは「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(?コリ6:1-2)と述べている。イエスが十字架に架かり、血を流し、死んで葬られ、甦られ、私たちの救いとなってくださった。今、私たちの前にはこの救いの扉が大きく開かれている。しかし、この扉は永遠に開かれているのではなく、やがて閉ざされるであろう。それ故、今こそ、救い主を信じ、光の子となることが求められる。救いの言葉を宣べ伝えよう。
 
2019/3/28(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書1:8-9  賛美 新聖歌251
 二人の子に続いて、男の子が生まれた。この子にもまた神が名づけの指示を与えられる。今回も子どもの名前に託された意味は好転することはなかった。「ロ・アンミ」すなわち、わが民でない者という名を与えられる。親としてホセアがこのような名を与えなければならないことはどれほどの苦痛だっただろうか。神はこの名を通して最終的にイスラエルを見捨てると語られる。神に選ばれた民として、祝福の基となるとまで言われたイスラエルを神はもはや関係のないものとされるという衝撃的な宣言である。
 神はここに至るまで、神に背き続けてきたイスラエルの民に忍耐強く預言者を送り、罪を指摘し、悔い改めの機会を与え続けられた。しかしこの言葉に耳を傾けない者たちに最後にはもはや神の民でないと宣言される。神によって贖われ、神との関係の中で生かされている者は、その恵みに応えて神の前に正しく歩むことを喜びとし、従うことが主の御心である。恵みから漏れることがないよう、日々主を見上げよう。
 
2019/3/29(金) 担当 高谷清師  詩 43:1 賛美 聖歌 556
 かつてエルサレムで神殿に仕える身でありながら、何らかの理由で追放され、失意の只中で苦悩する詩人に対して、人は絶え間なく「お前の神はどこにいる」と嘲る。そのような状況下で必死に祈るが、神は沈黙を守られる。しかし、詩人は信仰によって祈り続ける。その祈りの中で詩人は自らの願いが神のみ旨に適うものであるとの確信に導かれる。その確信に立った詩人は「神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者/よこしまな者から救ってください。」と祈る。この箇所についてA. ヴァイザーは「祈る者は、いまや疑いに抗して魂を緊張させ(431)、暗い悩みを通り抜け、ついに願いが確実に聞き届けられる道を、勝利の思いに胸ふくらませながら見つける。その思いはいみじくも、もはや第二連のように、心のうなだれたさまを述べる折り返し句には続かないで、神の助けを望む見通しに直結する。祈る者は、心血を注いで獲得した神の確かさからもはや離れることはない。また敵に嘲られて度を失うこともない。正義は自分の側にあることを知る故に、断じて動じないのである。こうして彼は、神が自分の正しい訴えを取り上げ、不信と虚偽の暴虐者たちの手から救って、権利を回復して下さるように祈る。」『ATD旧約聖書註解詩篇上』ATDNTD聖書註解刊行会1983、P8)と述べている。理不尽な境遇にあって神に祈るも、手応えの無い時、私たちの信仰は試練に立たされる。しかし、御言葉に立って祈り続けよう。神は必ず、答えを与えてくださる。
 

2019/3/30(土)担当 高谷由紀子師 ガラ 3:26-27 賛美 聖歌 316

 春、新しい門出の季節を迎え、人々はその環境にふさわしい服装で町を行き来しています。学生には学生として、社会人には社会人としてのふさわしい服装があります。しかし、いくら服装を整えても、内なるものが伴わなければそれはやがて色あせていきます。パウロは「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラ 3:26-27)と述べています。表面的にキリスト者らしく装うのではなく、キリストによって贖われ、霊的命を受けた者として、ふさわしい信仰生活を送りましょう。