2016/3/21-26

2016/3/21 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ3: 10-12 賛美 新聖歌 247
 「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」と教えたペトロは、詩篇34章を引用して「命を愛し、/幸せな日々を過ごしたい人」に語る。主イエスに対する信仰を与えられ、罪の赦しと永遠の命の恵みに与り、神の子とされた者は全き平安に入れられる。しかし日々の生活において苦難や試練が一切なくなるのではない。私たちが神の子とされた後も試練や苦難はつきまとう。否、不信者の時には受けることのなかった信仰の故の苦難が増し加わるであろう。主か弟子たちに「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハ16: 33)と教えておられる。詩篇もまた「主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し/ 骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。」(詩 34:20-21)と語っている。世はキリスト者を迫害するであろう。しかし世はキリスト者を神から引き離すことはできない。

2016/3/22(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書30:18-26 賛美 新聖歌280
 裁きの言葉の真っただ中でイスラエルへの神の憐れみによる救いが宣言された(30:18-26)後、ここではイスラエルを苦しめるアッシリアへの裁きが描かれている。神はご自分の民を憐れまれる。それと同時に、彼らを苦しめる敵であり、神に対して不従順で傲慢な悪としてのアッシリアを徹底的に裁かれる。当時の世界で強大な権力を誇り、武力で周辺諸国を制圧していたアッシリアでさえも、神は火と雨と雹など様々な方法で打たれる。さらにアッシリアはこの事の背後で働かれる主の声を認めるがゆえにおののくのである(30:31)。
 現実に神を信じる人々が強大な悪によって苦しめられ、なすすべがないということを体験する。しかしこのイザヤの言葉は、眼前の現実にかかわらず、正義の神はご自分の定められた時に悪を懲らしめる力を持ったお方であり、御心に従って裁きを行わる方であることを思い起こさせてくれる。それゆえ、神に頼り、望みをおいて歩もう。

2016/3/23(水) 担当 高谷清師  ?ペテ3:10-12  賛美 新聖歌 384
 命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人の守るべきことの第一は「舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語ら」ないことである。主イエスは弟子たちに「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタ 5:11-12)と教えられた。総督ピラトの前に立たれた主イエスについてマタイは「祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、『あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか』と言った。 それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。」(マタ 27:12-14)と記している。またパウロは「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。」(?コリ4:10-13)と述べ、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(ロマ 12: 14)と教えている。自らの舌を制し、全ての人に対し祝福を祈る者となりたい。

2016/3/24(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書31:1-26 賛美 新聖歌373
 再びエジプトに頼ってはならないと警告される。イザヤ書を通じて何度もこの警告が語られるが、ここでも人間にすぎないエジプトに頼るなと言われる。人の常として、権力と武力を誇る者の庇護のもとに身を寄せようとする。しかし神は、どれほど強大であってもやはり所詮人間は神の力に対抗することは出来ないのだから、そのようなものに頼るのではなく、ただ神に頼れと言われる。人の知恵も力も神には及ばない。エジプトだけではなく、エジプトを滅ぼしたほどの大国のアッシリアさえも神によって倒されるとも語られる。
 混乱の中で本当に頼るべき者、頼るべき方を見極めるのは簡単なことではない。しかし混乱と命の危機にあっても信仰に立っているならば、神に頼れという声を聞き分けることができる。あらゆる状況においてやはり頼るべきお方はただ神のみである。

2016/3/25(金) 担当 高谷清師  詩編17:1-5  賛美 新聖歌 190
 この詩の表題は「祈り。ダビデの詩」と記されている。そして6節から12節を見ると、ダビデが神に逆らう者からの激しい攻撃さらされていたことがわかる。そのような状況の中に在ってダビデは神に助けを求めて祈っているのである。彼は先ず「主よ、正しい訴えを聞き、わたしの叫びに耳を傾け、祈りに耳を向けてください。」と求めた後、「わたしの唇に欺きはありません。」と語っている。そして「御前からわたしのために裁きを送り出し、あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね火をもってわたしを試されますが、汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。と語る。そして「わたしの口は人の習いに従うことなく、あなたの唇の言葉を守ります。暴力の道を避けてあなたの道をたどり、一歩一歩、揺らぐことなく進みます。」と告白する。この詩から私たちは祈りについて学ぶ。祈る時には、第一に義の前に立って自らを吟味することが求められる。更に神の前に自らを開き、神の検証に委ねることが求められる。そして御言葉に従い、主の道を歩む、信仰告白が求められる。しばしば自己吟味を欠き、神に対する要求の羅列であるような祈りを耳にするが、私たちの祈りはそうであってはならない。

2016/3/26(土) 担当 高谷由紀子師  ルカ8:1-3 賛美 新聖歌438
 ここに記されているとおり、主イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら旅を続けておられました。そしてその宣教には12人の弟子とそのほかに悪霊を追い出していただいた人々や病気を癒していただいた人々が同行していました。彼女たちは信仰と献身によって主の宣教の働きを支えたのでした。彼女たちの働きは地味な陰の部分の働きでしたが、不可欠なものでした。私たちも、与えられた働きが目立つ働きであれ、目立たない働きであれ、心をこめて仕えましょう。”,,981″