2022/2/21-26

 2022/2/21(月) 担当 高谷清師 Ⅰテモ2:11-15  賛美 新聖歌 236

 12節において「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。」と述べたパウロは、その理由として「なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。」と語る。それに続いて「しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。」と語る。この箇所についてカルヴァンは

「先ほどパウロが告げた[エバに関する厳しい]言葉は、たとえ勇敢な心の持ち主であっても、その心を揺り動かし、不安にさせてしまうことだろう。よって、パウロは慰めをつけ加え、先ほど自分が告げたことへの不安を和らげようとする。確かに、神の御霊とあらせても、我々を告発し、我々を断罪される。だがそれは、恐れ入った我々を、突き飛ばされるためではない。むしろ、神の御霊は、打ちのめされた我々を、」すぐに立たせてくださる。もしかしたら、女性は皆、全人類の破滅の原因はあなたがた女性のせいだ、と聞かされたとき、(私が今言ったように怖じ気づいてしまったかもしれない。「私たちが被る罰は、なんと大きいことでしょう!」と。確かに、従順に服しているときでさえも、自分たちに対する神の御怒りを絶えず思わねばならないとしたら、どんなに苦しいことだろう。よってパウロは、女性を慰めようとする。パウロは、女性に対し、自分たちの境遇を受け入れることができるようになるために、次のように言って伝える。「あなたがたは罰を被りました。ですがそれは、一時のことだけです。あなたがたにも救われる希望が残っています。」(カルヴァン・新約聖書註解??テモテ・テトス・フイレモン書P7879新教出版社2021))

と記している。

 神は私たちの罪を厳しく指摘される。それは私たちを絶望に陥れる。しかし神はたえず救いの道を示してくださる。すなわち、御子イエスの十字架である。ヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(?ヨハ 1:7)と語っている。

 

2022/2/22(火) 担当 ラウジー満世師 マラキ書1:1 賛美 新聖歌170

 旧約聖書の最後に置かれているマラキ書を読んでいく。マラキ書の冒頭はとても単純な一文である、ここでは「マラキ」を通して主の言葉が与えられたと記されているが、この言葉を語った預言者はどのような人物であったのか、詳しいことはわからない。「マラキ」は「私の使者」という意味である。この使者はイスラエルに対して、神から託された言葉を語る。イスラエルとは北王国の民、南王国の民だけではなく、神の選びの民すべてを指し、全体に対して神の言葉を語っている。さらに、この書に記されているメッセージから、これらの言葉が語られているのはおそらくハガイやゼカリヤが働いた時代からしばらくたった時代であったようである。

 捕囚の地から帰った人々によって神殿は再建された。その神殿で礼拝はささげられていた。この地での民の生活は比較的穏やかで、生活を脅かすような他民族、他国との衝突はなかった。しかし同時に神殿を再建した時のような神への信仰の熱心さも失われている状態でもあった。生活は穏やかな時代であったが、それゆえに神にすがらなければ生きていけないという状況でもない時代に語られた主の言葉である。

 

2022/2/23(水) 担当 高谷清師 Ⅰテモ2:15 新賛美 新聖歌 45

 本節においてパウロは婦人の救いについて二つのことを記している。第一は「信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑である」ことである。エフェソ書においてパウロは「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェ  2:8)と語っている。またガラテヤ書においては「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」(ガラ5:22-24)と語っている。婦人は恵みによって与えられた信仰に固く立ち、その信仰の証としての霊の実を結び、貞淑な生活を送ることによって自らの救いを証明していくのである。これは婦人のみならず、全ての聖徒に言えることである。

 

2022/2/24(木)担当 ラウジー満世師 マラキ書1:1 賛美 新聖歌38

 マラキが語った時代、神の民は外国の脅威にさらされているわけではなかった。平穏な時代であったが、それゆえに神にすがる必要を日々感じることはなく、何となく時が過ぎていったという状況にあった。神殿は先人たちの努力により完成したが、そこに期待された奇跡的な神の介入とユダ王国の再建は起こらなかった。平穏さの中に神への信仰の熱意が失われていく中、まさに神殿での礼拝は日々繰り返される習慣となり、そこには神への強い愛と信頼という熱が感じられなくなっていった。

 本当に神はイスラエルを愛しておられるのか?神の正義は世界に存在するのだろうか?これを必死で問いかける心も失いかけていたような信仰の危機の時代にマラキは語り掛けた。確かに神が導かれる将来に向けて語り掛け、キリストの来られる将来へ向かう神の言葉を語る。差し迫った危機を日常生活において感じないときにも神の言葉が必要であり、語り掛けられていることを思いつつこの書を読み進めよう。

 

2022/2/25(金) 担当 高谷清師 詩 66:10-12  賛美 新聖歌 5

 詩人は神の裁きと回復の歴史を思い越しつつ「神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。あなたは我らを網に追い込み/我らの腰に枷をはめ、人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが/あなたは我らを導き出して/豊かな所に置かれた。」と詠う。イザヤは「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。」(イザ40:1-2)と記している。神の民が罪を犯す時、神は裁かれる。しかしその裁きは、滅ぼすためではなく、悔い改めに導き、命を得させるためである。ヘブライ人への手紙の記者は「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブライ12:11)と語っている。私たちは試練の時も、そこに込められている神の愛に信頼しつつ耐え忍び、神を賛美し、祝福に与るものとなろう。

 

2022/2/26(土) 担当 高谷清師 マタイ9:35-38 賛美 新聖歌 201

 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこでイエスがご覧になったのは飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆の姿であった。イエスはこの状態を深く憐れまれた。そして弟子たちに「収穫は多いが、働き手が少ない。」と言われた。群集の悲惨な状態は神の目には「収穫は多い」状態である。パウロは自分のみに与えられたとげについて、これを離れさせてくださるよう、三度主に願った。それに対して与えられた答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(?コリ 12:9)ということばであった。

 今日の社会における最大の問題、老人問題に目を向けると、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている姿がある。迫りくる死を前にして絶望と恐怖が支配する。どんなに至れり尽くせりの処遇を受けても、どんな慰めの言葉もそれを解決することはできない。若年世代も、壮年世代もこれは本質的には同じである、これを解決できるのは永遠の命を得させる福音だけである。宣教のために祈ろう。