≪デボーションの友≫2022/9/26-10/1

2022/9/26(月) 担当 高谷清師 ガラ 3:21-22 聖歌(総)552  聖歌530

 パウロは「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。」と述べる。この「聖書」は旧約聖書を指している。(パウロがこの文章を記した時新約聖書はまだ成立していない。)申命記は「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。(申 27:26)と語っている。この箇所について宮平望師は

「律法は、律法が直接与えられているユダヤ人たちも、良心が律法の代わりに与えられている異邦人たちもすべての人々を罪の下に閉じ込めるのに対して、この律法をすべて実現したイエス・キリストへの信仰によって人々はその罪から解き放たれて自由にされることも神によって約束されている(ガラ5:1)。このことが実現されるために、イエスは罪がないにもかかわらず、罪人たちの代表として、言わば罪の下に閉じ込められるようにして十字架上で死に至り、父なる神によって生き返らされることによって、すべての罪人たちに救いの道を備えたのである。(ガラテヤ人・エフェソ人・フィリピ人・コロサイ人への手紙私訳と解説P90-91)」新教出版社2013) 

と記しておられる。罪の認識は赦しと救いへの渇望を起こさせる。罪の認識なきところに救いへの渇望は無い。傲慢な人々は「わたしには罪は無い」という。罪を指摘されても「それ位のことは皆やっていることで罪ではない」と言って悔い改めようとしない。そのようなものに救いは無い。

2022/9/27(火) 担当 ラウジー満世師 創世記17:9-14 賛美 聖歌(総)469 聖歌456

 土地の約束を与えられた時、神はアブラハムにも契約に忠実であるよう求められた。割礼を受けることであった。割礼はすでに当時広い範囲で生活習慣として行われていたが、この時からそれはアブラハムの子孫であるイスラエルの民を含めたアブラハムと神の間で特別な意味を持つものとなった。神はご自身が契約に対して忠実であることをすでに15章において示されたが、今ここで契約の相手方であるアブラハムとその子孫にも生活と行動をもって契約を守ることを示すように求められた。

 神と共に生きるということは自分の力ではどうにもできないことを神に頼ることだけではない。私たちを守り、導き、支えて下さる神の恵みを日々覚えて、私たちも神への感謝と賛美と行動を通して示し、主に仕え従うことを日々実行していこう。

2022/9/28(水) 担当 高谷清師 ガラ 3:23-25  聖歌(総)428  聖歌426

 パウロは「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」と述べる。「信仰」とはイエス・キリストを指している。律法は私たちに罪を自覚させ、死を宣告する。死を宣告された罪人は罪の赦しと救いを希求するようになる。それは罪の贖い主、命の主、イエス・キリストへと導く。罪の自覚なくして救い主への渇望は無い。それ故、宣教の現場においては律法の告知は必須である。

2022/9/29(木)担当 ラウジー満世師 創世記17:15-22 賛美 聖歌(総)640 聖歌602

 アブラハムは再び、妻サライを通して男の子が与えられるという神の約束をはっきりと聞く。サライから生まれることのしるしとして、サライの名もサラと改められる。これほど明確に神の約束が示されたら、と今の時代に人々は羨むかもしれないほど明確な約束である。この時アブラハムはゆるぎない信仰をもって答えるだろうと私たちは期待する。しかしこの時のアブラハムは「信仰の父」とは程遠い。顔を地に伏せて心から神を敬い礼拝する敬虔な姿勢を取りつつ、実際には神から顔を見えないようにして笑い、ひそかに神の言葉を否定し、あざ笑い、あり得ない!と心の内で叫んでいる。神はすべてを見通されていながら、ご自分の御心は人の反応によらずに必ず実現すると再度宣言されたうえで「彼は笑う」という意味の名を子に与えられた。

 信仰の父アブラハムも時には信仰が揺らいだ。神はそれを知りながらも彼を見捨てず、定められた祝福を実現し、不完全なアブラハムと生涯共に歩まれた。私たちも信仰が完全だから神が導いてくださっているのではない。弱さもあり、失敗もするが、その中で主を見上げて従おうとするから神は憐れみをもって導いてくださっている。安心して今日も主のもとに帰ろう。

2022/9/30(金) 担当 高谷清師 詩 71:9-13 賛美 聖歌 502

 詩人は「老いの日にも見放さず/わたしに力が尽きても捨て去らないでください。」と祈る。彼を陥れようとする者共が「神が彼を捨て去ったら、追い詰めて捕えよう。/彼を助ける者はもういない」と言っていたからである。それ故、詩人は重ねて「神よ、わたしを遠く離れないでください。/わたしの神よ、今すぐわたしをお助けください。」と祈るのである。この祈りは「主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み/母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から/わたしを取り上げてくださいました。」と告白した彼の信仰によるのである。この信仰が本詩編の根底を為しているのであって、この信仰ゆえに敵対者の中に在っても賛美をささげることが出来るのである。23篇を髣髴させる詩編である。

2022/10/1(土) 担当 高谷清師 マタ 6:13 賛美 聖歌(総)604 聖歌570

 主の祈りは「我らをこころみに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈るように教えている。今日の日本の情況を見ているとキリスト者は社会的には少数派ではあるものの、ある程度社会に受け入れられ、表立って迫害に遭うことはまれである。キリスト者は社会において表面的には平穏な生活を送っている。

 神はオディキアにある教会に対して「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。」(黙3:15-18)と語っておられる。  冒頭でも記したが、今日、日本のキリスト者は社会においては平穏に過ごしているようであるが、一方では信仰の質的低下、それに伴う弱体化が進行しているように見受けられるのである。「我らをこころみに遭わせず、悪より救い出したまえ」との祈りの重要性、緊急性が認識されるのである。