2015/9/28-10/3

2015/9/28 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ1: 17-21 賛美 新聖歌 358
 続いてぺトロは「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです」と述べる。神は深いみ旨の中で贖いの御業を計画してくださり、その御計画に従って御子を遣わし、十字架につけ、その血によって贖いに御業を成し遂げ、死んで葬られた御子を復活させ、ご自身の右の座に着かせてくださった。私たちはこの御子によって罪を赦され、神に導かれ、救いの恵みに与っているのである。従って私たちの信仰と希望とは唯、神に懸っているのである。

2015/9/29(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書10:1-4 賛美 新聖歌220
 「災いだ」で始まり、「主の怒りはやまず/御手はのばされたままだ」で終わる裁きの言葉が続いている。北イスラエルにおいて律法に従って正しく裁きを行わずに、社会的弱者を虐げる指導者に対しての言葉である。当時の権力者たちは自己の利益になるように法を曲げることもいとわなかった。彼らは弱者の権利を守る土地の法を曲げてでも貧しい者から権利を奪い取っていた。これは単に道義的に赦されないということを越えて、神の律法に逆らう行為であるから決して受け入れられるものではなかった。しかし指導者たちは自己利益を追求することにしか目が向いておらず、襲い来る神の刑罰を考えてもいなかった。
 指導者であっても罪に陥る時には、心が神から離れ、神を畏れる思いは失われ、神を侮っていることにも気付かなくなる。立場や信仰歴に関係なく、罪に落ち込んでしまうことは常に起こりうる。常に神の前に正しく歩む道は、日々み言葉によって歩むことによってしか守られない。み言葉を読んですぐに忘れてしまうのではなく、与えられたみ言葉を思いめぐらし、それによって導かれる歩みを続けよう。

2015/9/30(水) 担当 高谷清師  ?ペテ1:22-25  賛美 新聖歌 224
 「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」と語られている。「真理を受け入れて」と言う箇所を口語訳聖書と新改訳聖書は「真理に従うことによって」と訳している。私たちは真理に従うことによってのみ、自分の魂を清くすることが出来るのである。その清くされた魂は、偽りのない兄弟愛を抱く。そのように導かれた人々に「清い心で深く愛し合いなさい」と勧められる。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハ 3:16)」と述べている。私たちに注がれている神の愛は偽りのない、純粋で真実な愛であり、報いを求めない、無償の愛である。世人の愛は自らへの報いを期待する愛である。しかし、キリストに在る兄弟姉妹の間では偽りのない、純粋な愛をもって愛し合うことが求められる。その源は十字架である。

2015/10/1(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書10:5-15 賛美 新聖歌458
 ここまではイスラエルの罪について語ってきたのに、同じ決まり文句で囲まれた形式にもかかわらずここでは突然アッシリアの罪を指摘する。イスラエルの神はイスラエルの罪だけを裁かれるのではない。神は天地万物の創造者であり、地上のあらゆる者がその主権のもとにあることを思い起こさせてくれる箇所である。イスラエルから見れば強大な恐ろしい異邦人も、神の目にはイスラエル同様、ご自身によって創造された人々であった。それ故に真の神を信じていないアッシリアといえども神に逆らい、神を支配することはできないのである。15節で語られているとおり、神の被造物にすぎないアッシリアが神に逆らうことなどできるものではない。
 真の神を否定する人々、地域、社会には神の主権と正しい支配が及ばないかのように感じて落胆してしまうことがあるかも知れない。しかし、あらゆるものが神の御手の中にあり、神の御心はなされるのである。そこにこそ神に従う者たちの希望がある。神は力ある方である。悪の力に飲み込まれるように感じることがあっても、背後に主権者である神がおられる。常に神に望みを置いて歩もう。

2015/10/2(金) 担当 高谷清師  ?ペテ1:17-21  賛美 新聖歌 18
 「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」と語られている。主イエスは「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない(ヨハ 3:3)」と語られ、更に「イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である(ヨハ 3:5-6)」と語っておられる。ぺトロは先に「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです(?ペテ1:18-19)」と述べた。さらにパウロは「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます(?コリ4:16)」と述べている。肉から生まれ、滅びの中を歩んでいた私たちを、神は憐れみによって召し、永遠の御国の民として新しく生まれさせてくださったのである。無限の愛と憐れみ、永遠の恵みを全身全霊をもって感謝し、誉め称えよう。

2015/10/3(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ10:1-12 賛美 新聖歌216
 ファリサイ派の人々はイエスから学ぶためではなく、イエスを試そうとして離縁について尋ねた。これはイエスを罠にかけるための質問にすぎなかった。ファリサイ派の人々は「合法的なこと」(2節)、「許されていること」(4節)について語ることによって、自分たちが如何に上手く律法の間をすり抜けていくことが出来るかを考えていることを明らかにした。これに対してイエスは知恵に富んだ神のことばによって答えられた。神は創造の時に人を男と女に創造された。二人が結び合わされ、一体となる結婚は神の御心であり、創造の時に与えられた神の秩序によるものであった。イエスは律法の要求よりも、神の御心に関心を持っておられる。ファリサイ派の人々はイエスを試みようとして質問を投げかけたが、主はそれを用いて創造の最初から神が与えられた深い恵みに心を向けるよう、導かれた。”,,1137″