2015/9/21-26

2015/9/21 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ1:17-21 賛美 新聖歌 390
 ぺトロは「また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」と語りかける。パウロが「あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります(ガラ 4:6)」と述べているように、「父」と呼びかけている人々はキリストの贖いの恵みによって救われた人々である。彼らには天の御国が約束されている。しかし、キリストの救いにあずかってから御国に入れられるまでの間の地上の歩みは仮住まいである。この仮住まいの終わる時、パウロが「おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです(?コリ3:13)」と述べているように、聖徒たちの歩みは主によって吟味されるのである。吟味される主は人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方である。それ故に私たちはその間を主を畏れて生活するべきである。ある人々は人前だけを取り繕って首尾よく生きる。しかし主は隠れた行いを見過ごされることはない。どこまでも主を畏れ、真実に歩もう。

2015/9/22(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書8:23後半-9:6 賛美 新聖歌299
 8章ではイザヤの預言を聞いても神を信じなかった王の姿を目の前にして、預言者がその言葉を封じて暗闇と沈黙のうちで望みを将来に置くことが語られた。それに続く9章の始めには正反対の様子が記されている。信仰を持つこともできない民に対して、神が与えてくださる喜びの故に光が輝くというのである。理由なくこの素晴らしい恵みを受ける民はただただ喜び楽しむ。それは神が与えてくださる一人の子どもの誕生による。それはダビデの王座を継ぐ子であった。5-6節は王の即位の儀式での文言に従って記されている。7章でアハズに与えられた預言を背景として語られるこの子どもの誕生は、不信仰な民に対する神の恵みとして与えられる、正しく神に従う王を約束する預言でもある。
 救いは私たちの神に対する強い信仰と正しい行動の報酬として与えられるのではない。暗闇からの解放は弱い私たちに対しても注がれる神の憐れみによるのである。神の恵みを覚えつつ、今日も感謝にあふれて歩もう。

2015/9/23(水) 担当 高谷清師  ?ペテ1: 1:17-21  賛美 新聖歌 360
 ぺトロは「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」と述べている。先祖伝来の、即ちアダムの子孫として、むなしい罪の生活を続けてきた私たちは、キリストの尊い血によって救われたのである。このキリストの血は金や銀のような朽ち果てるものではない。永遠に力あるものである。「キリストの血」それは私たちの救いの原点、いのちの源である。私たちは常に原点に立ち返り、み名を崇め、感謝の思いを新たにして主に仕えて行こう。

2015/9/24(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書9:7-20 賛美 新聖歌364
 罪深い民に対する神の裁きの言葉が続いていく。「しかしなお、主の怒りはやまず 御手は伸ばされたままだ。」(9:11, 16, 20)と繰り返されていく中で民の頑なな姿が浮かび上がる。町が攻撃されて破壊されてもなお神に助けを求めず、自分の力でより堅固にしようとする、傲慢な民であった(9:7-11)。神が彼らのうちから指導者を奪い、混乱に陥れられてもなお背後におられる神を認めず、立ち帰らない民であった(9:12-16)。さらに容赦ない破壊が送られてもまだ神に立ち帰らない民であった(9:17-20)。北王国に破壊が襲っても彼らは悔い改めなかった。その同胞の姿を見ながらなお罪を認めず、神に頼らない南王国にも同じ神の手は伸ばされている。
 この希望のない裁きのことばから南王国は何を聞き取らなければならなかったのだろうか。それは罪の罰としていくら苦しんでいても、自らを省みて罪を認め、悔い改めて神に立ち帰り、神に頼らない限り、何の助けにもならないということである。私たちは神の前にどのように歩んでいるのだろうか。神の目に喜ばれる歩みを続けたい。

2015/9/25(金) 担当 高谷清師  ?ペテ1:17-21  賛美 新聖歌 357
 続いてぺトロは「キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました」と述べる。神が御子を救い主としてお遣わしになるという計画は、天地創造の前からであったというのである。これについてカルヴァンは「天地創造以前にはアダムはまだ堕落していなかったから、キリストが堕溶するまえから贖い主として予定されていたとは、一体どういうことなのであろうか。こう質問するのは救い{薬}は悪{病気}の後で用いられるべきものであるからである」。わたしは答える。「このことは神の予知し給うこととかかわりがあるのだ」と。というのは、神は、実に、人間を創造されるまえに、人は長い間にわたって完全な状態にありうることはできないであろうということを、十分に予知し給うたからである。ゆえに神は、その驚くべき善意と知恵とに従って、キリストを解放者と命じ給うた。(カルヴァン新約聖書注解??ペテロ・ユダ・ヨハネ書簡P48新教出版社)」と述べている。そして神はこの終わりの時代に、御子を私たちにあらわしてくださったのである。その故、私たちは理解することはできないが、恵みの時代に生かされていることを心から感謝し、救いの恵みに生きよう。パウロもまた「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい(フィリピ2:12)」と勧めている。

2015/9/26(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ12:28-34 賛美 新聖歌89
 律法学者は「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」(12:28)と質問しました。当時の律法の中には350を超える禁止や、約250もの命令がありました。多くの教えや戒めの中に軽いものや重いものなど、重要性の点で順位があるのかという問題について尋ねました。それに対して主イエスは神を愛することと隣人を自分のように愛することが大切だと答えられました。
 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(出20:2)と言われた神を愛することが神に従う人の生活における基礎なのです。神を愛し、神との関係を確立しながら、神が愛されている私たちの隣人をも、その愛をもって愛するのです。神か、隣人かのどちらか一方ではなく、両方を愛し仕えていくものになりましょう。”,,1194″