≪デボーションの友≫2022/9/19-24
- 2022.09.18
- ディボーションの友
2022/9/19(月) 担当 高谷清師 ガラ 3:19-20 聖歌(総)631 聖歌592
「見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫―キリスト―に与える。」(創13:15)と語られた神の約束は「それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはない」と語ったパウロは「では、律法とはいったい何か。」と問う。そして「律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので」と語る。ローマの信徒への手紙においてパウロは[では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。(7:7)と語り、「罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。」(ロマ7:11-13)と述べている。
律法は罪を示し、死に定めるが、救いをもたらすことはできないのである。自分の義に生きようとするところに救いは無いのである。
2022/9/20(火) 担当 ラウジー満世師 創世記17:1-3 賛美 聖歌(総)414 聖歌414
アブラムは99歳になった。75歳でハランを出発してから25年が経っていた。その間、エジプトに降り、甥のロトとの別れや救出があり、ハガルの出来事があり、様々な経験をした。日常生活における様々な責任を負いながら神に呼び出された時からの約束を心に留めていた。時には実現を強く願っただろうし、また時には疑い、神との対話において不満をぶつけるようなときもあっただろう。いつまでも実現されない約束と向き合うことは時には人間にとっては苦痛であるし、それゆえに意図的に約束について考えることを避ける場合もあるだろう。しかし神は決して約束を忘れてはおられなかった。25年を経て神はアブラムの前に現れて「全き者となりなさい」という言葉を通して神に服従することを求められた。アブラムは改めて神に従うことを決意し示すことによって再度神の約束を明確にされた。
人は何年待っても実現しない約束を忘れ、なかったことにしてしまうかもしれない。しかし神は約束を決して忘れたり反故にしたりはされない。私たちは神の約束を信じて待つ。あきらめずに神に従い続けよう。
2022/9/21(水) 担当 高谷清師 ガラ 3:19-20 聖歌(総)632 聖歌594
パウロは律法について「天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです」と語る。レビ記は「以上は、主がシナイ山においてモーセを通して、御自分とイスラエルの人々との間に定められた掟と法と律法である。」(レビ 26:46)と述べている。律法はモーセを仲介者として神とイスラエルの民との間に結ばれた契約である。約束については「仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。」と述べている。ヘルマン・ウォルフガング・バイヤーは
「仲介者の存在は、そこに向かい合った両者がいて、たがいの間で契約を結ぶ話し合いに入ろうとしている情況を前提とするものである。しかしこのような情況は神の本質に矛盾する。神は、唯一無二の絶対者として御業をなしたもうのであるから、そのような契約の交渉相手など持ちたもうことはない。神はひとえにその自主独占的絶対性に基づいて行動し、第三者を起用して人間たちと話し合いの交渉に入るといった道をとりたもうことはない。約束は、神の自主独占的絶対性の純粋な発露として神御自身からアプラハムに語り告げられたのに対して、神とイスラエルの間の、いわば相対的契約の基礎となった律法は、モ-―セの仲介をとおしてこれを受容すべき民の前に差し出された。この事実の中にパウロはひとつの深い意味を読み取るのである。すなわち、約束は相手に束縛されない自由な行動の発現であって、そこに働いているのはただひとつの意志、つまり約束を与えたもう者の意志のみである」(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡P73 NTD新約聖書註解刊行会1979)
と記している。イエスはイスラエル人の「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」との問いに対して「「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」(マタ19:7-8)と答えておられる。約束の言葉は律法に先行する。
2022/9/22(木)担当 ラウジー満世師 創世記17:4-8 賛美 聖歌(総)629 聖歌591
神にひれ伏したことを通して主の契約の確認に応えたアブラムに対して、彼が多くの国民の父となると約束を再確認された。かつて子を与えると約束された神の言葉はここでは多くの国民の父となると大きく前進している。約束が実現されない間も神は約束を覚えておられたばかりではなく、さらに大きな恵みを確認してくださった。約束の再確認と共にアブラムとその妻サライの名前も変えられる。神ご自身がアブラムの前に現れて、子孫を与えると言われた。子孫の約束は重要であった。それゆえにアブラムとサライは何度も信仰の危機に直面してきた。神は彼らの信仰を見、従う姿勢を見ておられた。そして永遠の所有地までも与え、彼らの神となられるという特別な関係を再度念押しされた。
神の前に服従してひれ伏すことはいとも簡単なようで、大きなチャレンジであった。しかし神の言葉に心を開いて従い、応答するときに主は報いて下さる。主の導きを聞いたら、応答しよう。
2022/9/23(金) 担当 高谷清師 詩 71:5-8 賛美 聖歌(総)516 聖歌498
詩人は「主よ、あなたはわたしの希望。」と詠う。それは神が自らの造り主であると信じ、若いときからあなたに依り頼み、母の胎にあるときからあなたに依りすがって来たからである。それ故に、神は常に自らの希望であり、避けどころであり、砦である。このような信仰に立って歩むとき、魂は喜びと感謝と平安に満たされ、口は常に讃美に満たされる。神を自らの創造者と信じ、神に全く信頼して歩む人生こそ、真に幸いな人生である。
2022/9/24(土) 担当 高谷清師 マタ 6:13 賛美 聖歌(総)449 聖歌447 主は「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく/我らの罪をも赦したまえ」と言う祈りに続いて「私たちを試みに遭わせず/悪からお救いください。」と祈るように教えておられる。「悪からお救いください。」という祈りについて考えてみたい。三浦綾子の小説、氷点において陽子が服毒自殺を図った時集まった人々は口々に自らの罪を告白する。彼らは皆、社会的地位もあり、立派な生活を送っていた人々であった。そして陽子はとりわけ非のうちどころのない立派な人物として描かれている。その陽子について高木は「まあ、そうだな。罪について、こんなにきびしく意識する人間は、だれの子に生まれても、結局同じ考え方をするようになるだろうな」(氷点下P361角川文庫)と語っている。ヨハネは「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」(Ⅰヨハ 1:10)と述べている。「私には罪は無い」と言い得る人間は一人もなく、罪赦された後も罪を犯すこと無く生き得る人間は一人もいない。それ故、この祈りは必須である。
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