2018/7/9-14

2018/7/9(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:48-59 賛美 新聖歌 407
 イエスは「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって」と語られる。この箇所についてカルヴァンは「わたしたちはこの言葉から、次のことを教えられる。ひとびとが自分自身からひき出す栄光は、すべてとるに足りない無にひとしいものである、と。しかし、わたしたちは、このなにものでもないもののために、かくも思いわずらいはたらいているのであるから、野心はなんと盲目なものだろう。だから、わたしたちは聖パウロの次の言葉を、たえず目の前に見ているようにしよう。自分自身をほめるひとは認められず、神からほめられるひとが認められる、と(?コリント10:18)。(新共同:自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。筆者挿入)さらに、わたしたちはすべて、神の栄光を身に備えてはいないから、めぐみによって主イエスの栄光にあずかる者とされるかぎりにおいて、主イエスひとりにおいてのみ、みずからに栄光を帰することを学び知ろう。」(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書新教出版社1967上P305)と記している。
 肉の思いによって獲得する栄光は空しい。それは神の国を継ぐことはできない。神の栄光のみを求め、神から栄光を帰される歩みをしょう。

2018/7/10(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書31:15-20 賛美 新聖歌340
 子を失った母の嘆きの形でイスラエルの民の嘆きが述べられている。この母の嘆きと重ねて、イスラエルが国を失い、人びとが消え失せたとことを思い起こす。彼らにとってそれは大きな嘆きであった。そして主はこの嘆きに耳を傾けられる。更に民の嘆きは続き、今や彼らは自分の罪をも嘆き始める。彼らは今や公に罪を認め、自らが主に立ち返ることができるように、主が彼らを立ち帰らせてくださるようにと求める。民が心から罪を嘆き、悔い改める時、神は彼らの父親として彼らを迎えられる。そして彼らを憐れまずにはいられないと語られる。愛する子たちを憐れむ神の愛の深さを知る。
 神は罪に対して厳しいお方である。人が罪の中に歩み続ける時、決してその罪を無条件に赦されはしない。しかし罪を犯した者が心を砕かれ、真心から悔い改めるなら、その悔い改めに耳を傾け、その罪人を受け入れ、赦してくださる。日々自らを省みて罪を犯していたならば悔い改めて主の愛の内に生きよう。

2018/7/11(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:48-59 賛美 新聖歌 38
 続いてイエスは「あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが」と語られる。アブラハムに与えられた神との契約がイサク、ヤコブに受け継がれ、ヤコブがイスラエルと呼ばれ、神との契約の継承者、神の選民、神の祝福を継ぐ者とされた。それによってユダヤ人たちは自分たちを主なる神を『我々の神だ』と言い、誇っていた。しかし彼らは契約の言葉、神の言葉を肉によって曲解し、真理からそれていった。それ故、イエスは「あなたたちはその方を知らない」と言われる。
 今日、御子の贖いの恵みによって神の言葉はユダヤ人から地上に住むすべての民に開かれた。私たちは今、すべてのみ言葉に与ることが出来る。この御言葉に与ろうとするとき、すべての先入観を捨てて虚心坦懐に、聖霊の助けと導きを求めつつひざまずかなければならない。それによってみ言葉の真意を知ることが出来る。

2018/7/12(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書31:21-26 賛美 新聖歌209
 神の赦しの宣言は言葉だけで終わってはいない。具体的な行動をとるように民に促している。先に立つ人に対して道しるべを置けと言われる。後に続く人々が迷うことなく帰るべき地に帰り着くことができるために配慮してくださる。また、いつまでもさまよい心が定まらない人に対しても、新しいことを始めたのは主ご自身であって、民はそれに従って行けばよいのだと励まされる。更に回復された姿のイメージまでを示し、まだ実現していない神の繁栄の回復を民に告げ知らせ、民を奮い立たせる。
 民の罪の結果として彼らの国を滅ぼし、捕囚とされた神が今この民を再び生かし、導かれる。その転換点には民の心からの悔い改めがあった。神は罪を犯して神から離れたものであっても、その罪に気付き、悔い改める人びとを受け入れ、赦し、回復させてくださる。常に人々との親しい交わりを求めておられる神に対して、私たちが罪を離れ、神を求めるときに常に愛をもって受け入れてくださる。主が始めてくださる回復と祝福があることを知り、誠実に神と共に歩もう。

2018/7/13(金) 担当 高谷清師  詩37: 34-36 賛美 聖歌 300
 ダビデは「主に望みをおき、主の道を守れ。主はあなたを高く上げて/地を継がせてくださる。あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。」と語りかける。ダビデの時代、神に逆らう者どもは権力の座に着き、権勢を誇り、神に従う者を執拗に迫害し、亡き者としょうとした。神に従う者は苦難の歩みを強いられた。しかし神はご自分に従う者を守り通された。神に逆らう者は滅び、神に従う者が王座に就いた。
 今日においても、神に逆らう者は権力の座に着き、権勢を誇り、世の繁栄を手にする。人々の大多数は自らの保身と利益のために権力者に迎合する。そのような事態が長く続くのを見て神に従う者のなかにも神に逆らう者に迎合しょうという誘惑が忍び寄る。しかし神に逆らう者の繁栄が束の間であることは歴史が証ししている。
 神に従う人々、歴史に学び、聖霊に励まされ、自らの信仰を全うしょう。

2018/7/14(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 15:1-7 賛美 新聖歌 217
 当時、社会的には下層階級に属し、エリート階級であるファリサイ派の人々や律法学者たちからは罪人とさげすまれていた人々が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来ました。この様子を見てファリサイ派の人々や律法学者たちは「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだしました。そこでイエスは一つのたとえばなしを語られました。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」と。そして「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」と教えられました。
 悔い改めないで罪に生きる人は永遠の死に定められます。しかしそれは神の御心ではありません。否、神の大きな悲しみです。神はすべての罪びとが悔い改めて救われることを望んであられます。それは私たちが御言葉の恵みを証しすることによって実現するのです。”,,547″