2018/7/16-21

2018/7/16(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:48-59 賛美 聖歌 602
 イエスが「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」と言われたのに対してユダヤ人たちは「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」と答えられた。この箇所についてカルヴァンは「世のあがない主であるかぎりにおいて、キリストの徳とめぐみは、すべての時代に共通なものだったからである。だから、これは、使徒がへプル13:8で言っていることと、合致するものである。きのうあったキリストも、きょうあるキリストも、永遠におなじこの者である、と。(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書新教出版社1967上P309)と記している。
 キリストは初めから天において父なる神と共におられ、肉をとって人となって地上に来られ、贖いの御業を成し遂げ、甦り、天に上り、神の右の座に着き、私たちのために執り成していて下さるお方である。

2018/7/17(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書31:27-28 賛美 新聖歌170
 神が人の種と動物の種を蒔かれるとはどういうことだろうか。種の中には植物に次の世代をもたらす命がある。この草木の新しい命である種という比喩を用いて人と動物にも新たな命を神ご自身がもたらすと言われる。全く新しい命が神によって創造されるのである。28節ではエレミヤ書の冒頭1:10の「10 見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」という言葉を思い起こさせる表現を用いて、確かに神が新たな命を与えるという創造の業を導かれることを宣言される。
 人は神に対する不従順という選択によって神から離れ、罪の中を歩み、裁きを受ける。しかし神は人びとをこの裁きの中に放置しては置かれない。ご自身の定めに従って彼らを再創造してくださる。新たな創造は神によってのみもたらされる。私たちも主の御業を見させていただくために祈ろう。

2018/7/18(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:48-59 賛美 新聖歌 315
 霊において語られるイエスの言葉を、霊の目が閉ざされている、肉なるユダヤ人たちは理解することが出来なかった。彼らは「主の御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す。神の御名を呪うならば、寄留する者も土地に生まれた者も同じく、死刑に処せられる。」(レビ 24:16)と記されている御言葉によって、イエスに石を投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。この箇所について矢内昭二師は「身を隠して」は、文字どおりには「隠された」(ここでは『受動形」である)。ヨハネは多分、神がみ子を守られたことを暗示しているようである。」(説教者のための聖書講解No30P34日本基督教団出版局1980)と述べておられる。この記事から、ソドムの町のならず者たちからロトを守った御使いたちの記事を思い起こす。神はいかなる状況にあってもご自身の者を守られる。信じて歩もう。

2018/7/19(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書31:29-30 賛美 新聖歌396
 神が新たな救いの業を始められる時、人びとはそれにどう応えるだろうか。29節の諺は古い時代の一族の連帯責任を問われるという原則を反映している。一人の人の罪の責任を一族全体で負うことは彼らの文化であった。しかし神の始められた新しい救いの業によって、人はそれぞれ自分の罪に対して責任を問われることとなった。連帯責任を負うことが常識の中で生きてきた人々にとってこれは大きな変化であった。大きな変化が起こるところではどこでも人が慣れ親しんだ考え方や生き方に捉われず、新たな時代に新たな出来事が起こることを見極め、受け取り、応答することを求められる。エレミヤも神がこの時代に新しい救いの業を始められたのだから、人びともこれまでの常識にとどまり続けるのではなく、新たな時代に即した新たな応答をするよう促している。
 これまでの物事のあり方、考え方を基礎にして現在を判断・評価し、応答するのは自然な応答である。しかし神が新たな業を始められる時には私たちもその新たな救いと時代を敏感に見極め、それを受け入れるよう自分自身が変えられていかなければならない。今日も主の業に心を開こう。

2018/7/20(金) 担当 高谷清師  詩37:37-40 賛美 聖歌 300
 神に逆らう者による迫害に耐え忍び、神のみ手に守られ、勝利したダビデが、神に逆らう者の権勢との繁栄を見て誘惑に心揺れる信仰者に対して語りかける、「無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。平和な人には未来がある。背く者はことごとく滅ぼされ/主に逆らう者の未来は断たれる。」と。歴史上には「反キリスト」を標榜して世を席巻し、あるいはキリストのためと語りながらその実、私利の追及に明け暮れた多くの人々がいた。しかし、彼らの大多数は消え去った。私たちは物事を長い目をもって見ることを学ばなければならない。人の主張と行動は瞬間、瞬間を見るとき正しいように見えるものであっても、10年、30年、50年のスパンをもって見る時、自ずと明らかになるものである。ダビデは言う「主に従う人の救いは主のもとから来る/災いがふりかかるとき/砦となってくださる方のもとから。主は彼を助け、逃れさせてくださる/主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」と。これはダビデが生涯を通して学んだ真理であり、試練の中にある、主に従う者への奨めである。

2018/7/21(土)担当 高谷由紀子師 マタ 6:1-4 賛美 新聖歌 346
 イエス様が善行について教えられたことが記されています。主は「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。と言われました。人は慈善事業を行い、多額の寄付をすることで世の人々に自分の善行を誇示し、人々の賞賛を得ることを期待します。主はこのような行為は偽善者のすることで、既に報いを受けていると言われました。私たちのする良い働きは、人からの賞賛という報酬を受ける為ではなく、隠れたところで愛によってなされるべきであると教えられました。その時、隠れたことを見ておられる神様はあなたに報いをくださるのです。それは天に宝を積むことになるのです。”,,526″