2018/7/23-28

2018/7/23(月) 担当 高谷清師 ヨハ 9:1-5 賛美 新聖歌 165
 イエスの一行が歩を進めて行くうちに、生まれつき目の見えない人にであった。そこで弟子たちはイエスに尋ねた「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と。出エジプト記には「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、」(出 20:5)と記されている。弟子たちの質問はユダヤ教の伝統的理解に基づいたものであった。これに対してイエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と答えられた。
 今日の私たちの社会にも因果応報思想に基づくこのような見解は広く浸透しており、苦難を負う人を苦しめている。しかしそれは本人や関係者の罪をあらわしているのではなく、神の御業が現れる為である。

2018/7/24(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書31:30-34 賛美 新聖歌165
 「契約」という出エジプト後のシナイ山で神が民と契約を結び、十戒を与えられた時から始まった長い歴史を持つ言葉を使いながら、神と民との関係について語っている。エレミヤの時代に至るイスラエルの歴史はこの契約が正しく守られず、両者の関係が崩れ去ったという、罪による失敗の歴史であった。この様な場合、普通、人間は「契約」というものが悪かったとして他の方法で神との関係を立て直そうとする。しかし神はなおも契約関係を用いられる。しかしこれは神だけが作り出せる根本的に新しいものである。神ご自身が一人一人に直接律法を与え、教えられるため、民は直接神の御心を知り、自分の意志において神に応答することができる。神だけが与えることができるこの新しさによって人々に悔い改めと救いの道が開かれた。
 今の時代も同じである。私たちはみ言葉を語り、神の愛を伝えるが、聖霊なる神が直接人の心に語りかけ、教えてくださるときにのみ、人は本当の神の愛と救いを知る。人々の心に神が語りかけてくださるよう、絶えず祈ろう。

2018/7/25(水) 担当 高谷清師 ヨハ 9:1-5 賛美 聖歌 321
 イエスは「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。」と語られる。マタイはイエスが「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタ 24: 14)と語られたと記している。ぺトロは「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。」(?ペト 4: 7)と述べている。イエスはご自身を遣わされたお方の業を為し終えて天に昇り、父なる神の右の座に着かれた。イエスが天に昇られた後、その御業は教会に託され、教会は父なる神によって遣わされた聖霊によってその業を行っている。それは永遠に続くのではなく、父なる神がご自分の権威によって定めておられる時に終わるのである。それ故、私たちは与えられている一時一時を尊び、全力を尽くして御業に励まなければならない。与えられている時を尊く生きよう。

2018/7/26(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書31:35-40 賛美 新聖歌316
 神は救いの約束を宣言された後で、世界とその秩序を造られた神として、この約束を永遠に保障される。神がこのような保障を与えることがおできになるのは、かつて神ご自身が最初に世界を創造されたということにだけ基づくのではなく、この世界に置かれた太陽、月、星などの被造物を通して創造の業を保ち続け、支配し続けておられるからである。エルサレムの都が破壊されるとしても、それを神は再建し、主に属するものとしてもう一度聖別して下さり、主のものであると宣言してくださる。それがどれほど確かなものであるかを示すために、再度「抜かれることも破壊されることもない」と1:10の御言葉の一部を用いて確実な救いと回復を宣言される。
 人は自ら神を離れて罪を犯した。そして自分の力で自身の罪を清めて神に立ち帰る力を持たなかった。そのような中に介入して下さり、罪を赦し、清め、回復し、それを保証してくださるのはただ神だけである。自力で神の前に親しく歩む努力は必要であるが、神の御業なしにはそれはあり得ない。今日も主に信頼しよう。

2018/7/27(金) 担当 高谷清師  詩 38:1-23 賛美 新聖歌 284
 ダビデは今、重い病気に罹っている。そのため、激しい苦痛の中に立たされている。それを、自らが犯した過ちのためであると告白している。その上で彼は「主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。」と祈り求めている。
 神の民も地上の歩みにおいて多くの苦難や試練に遭遇する。そのような時、私たちは「あの人がこうしたから、この人がああ言ったから・・・・・」と自らの罪を認めず、他者を非難しがちである。しかしダビデはそれを自らの罪によると告白し、悔い改め、神の憐れみを求めている。私たちは苦難や試練に遭遇するとき、それを通して自らを省み、悔い改め、神に赦しと憐れみと助けを求める者となりたい。

2018/7/28(土)担当 高谷由紀子師 使 2:44-47 賛美 新聖歌 137
 ここに初代教会の姿が描かれています。彼らは神の愛に満たされ、私心を離れ、互いの必要を満たしあい、一つとされて喜びに満たされ、その口からは賛美があふれていました。このような姿は、民衆全体から好意を寄せられ、神によって、救われる人々が起こされ、教会に加えられ、教会が成長していきました。教会成長の原動力は聖徒たちの一致であり、それは一人一人が神の愛に満たされるところから生まれるのです。終末の迫るこの時代に在って、魂の救いのため、神の愛に満たされ、互いの一致が与えられ、神の栄光が顕されるよう、歩んでいきましょう。”,,540″