2013/1/14-19

 

2013/1/14(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 17-19 賛美 聖歌242
 この箇所において著者は約束の子イサクの奉献の記事を通してアブラハムの信仰について語る。イサクは神の約束により、長年の待望の後、神の奇跡的な御業によって与えられた最愛の息子であった。それだけではなく、彼は神の契約を受け嗣ぐ独り子であった。神はこのイサクを焼き尽くす献げ物としてささげるように命じられたのである。この命令を受けた時アブラハムは一瞬、耳を疑ったであろう。『主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた(創 15:5-6)』と言われているように、神の契約はアブラハムの信仰の基盤であった。イサクの消失はアブラハムにとって信仰の基盤の消失を意味した。しかしアブラハムはこの信仰の危機をも、信仰によって乗り越えた。その信仰とは「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じた」ことであった。主は「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである(ヨハ 8:56)」と述べておられる。わたしたちの信仰にはしばしば試練が訪れる。その試練を克服させるのもまた信仰である。
 

 

2013/1/15(火)担当 高谷満世師 サムエル記下22:32-35 賛美 聖歌483
 「私の功績」。「私が努力した」、「自分を信じた」しばしば人はこのように語る。確かにどの分野においても偉業を成し遂げた人の努力と研鑽は計り知れないものがある。人には言えない苦労があっただろう。「私が」と語る人々の緊張感ははかり知れない。
 ダビデはここで「自分こそが力ある岩」であるとは語っていない。多くの戦いを経験し、勝利し、成功したダビデも、謙虚に「神はわたしの力ある砦」と語っている。それは自分の弱さに落胆し、意気消沈した姿ではない。自分の限界に絶えず踏みとどまりつつ、計り知れないプレッシャーと緊張に苦しむ姿でもない。自分の能力も限界も、すべて神に委ねきって歩み、主に信頼してさまざまな局面を歩んできた一人の信仰者が語る神への信頼と感謝の言葉である。
 わたしたちも「神こそがわたしの力」といえる歩みに導かれたい。
 

 

2013/1/16 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 20 賛美 聖歌539
 この箇所において著者はイサクの信仰について語る。イサクには二人の息子が与えられた。ヤコブとエサウである。人間的にみればエサウが長子であり、イサクもエサウの方を愛した。相続者はエサウである。しかし神の御心はそうではなかった。二人の誕生に際し『主は彼女に言われた。「二つの国民があなたの胎内に宿っており/二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり/兄が弟に仕えるようになる。」(創 25:23)』と言われている。ヤコブは策略によってエサウから長子の特権と祝福を奪っていく。それはヤコブとリベカの奸計と見えるが、その背後には神の御心があった。イサクはヤコブに欺かれたことを知るが、創 25:23を思い起こしよしとしたのであろう。この時イサクが現実に手にしていたのはアブラハムが妻サラを葬るために譲り受けた墓地だけであった。しかしイサクはヤコブに対する祝福で「どうか、神が/天の露と地の産み出す豊かなもの/穀物とぶどう酒を/お前に与えてくださるように。多くの民がお前に仕え/多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり/母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ/お前を祝福する者は/祝福されるように。(創 27:28-29)」と述べている。これは神の約束によるあり、信仰に基づくのである。
 

 

2013/1/17(木)担当 高谷満世師 サムエル記下22:36-46 賛美 聖歌543
 ダビデは続けて戦いについて語る。決して敵が倒れるまで引き返すことなく、最終的に敵は屈服する。やはり普通の場合、王が過去の戦いについて語るとき、自分の勝利として語る。しかし、ダビデは自分を強い者としてくださったのも神であると語る(22:36)。そしてダビデを確かに助けてくださる神とは対照的に、敵が助けを見回しても、彼らを助けるものは現れないと語る。すなわち、敵が頼みとしている彼らの神々は助ける者にはなり得ないというのである。
 人は実にさまざまなものを神々とする。そして真剣に自分が神とした者の力を信じて助けを求める。しかし、ダビデが自らの生涯の戦いを振り返って明言するように、ダビデを助ける力ある方、そして今わたしたちを助ける力のある方は、天地を造られた神、救いの盾を与える神ただお一人である。
 

 

2013/1/18(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11:13-16  賛美 聖歌508
 続いて著者はヤコブの信仰について語る。信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈った。その様子については創世記48章に記されている。ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた。しかし、イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。『そして、ヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に/祝福をお与えください。どうか、わたしの名と/わたしの先祖アブラハム、イサクの名が/彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に/数多く増え続けますように。」(創 48:15-16)』これもまた信仰に基づく祝福の祈りであった。
 

 

2013/1/19(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書10:38-42 賛美 聖歌496
 マルタは主をもてなすために忙しく立ち働いていました。一方、マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていました。マルタもマリアも共に主を愛し、主に仕えていました。主はマルタに「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と語られました。これによって主は、神の言葉を聞くことがすべてのことのなかで最も大切であることを教えてくださったのです。