2013/1/21-26

 

2012/1/21(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11:22 賛美 聖歌539
 この箇所において著者はヨセフの信仰について語る。神は飢饉のためエジプトに下ろうとするヤコブに『「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」(創 46:3-4)』と語られた。そしてヤコブは臨終にさいし、ヨセフに『「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。」それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」(創 50:24-25)』と語っている。ヨセフは臨終を迎えようとした時、自分の遺骨について指示を与えたのは信仰によってであった。
 

 

2013/1/22(火)担当 高谷満世師 サムエル記下22:44-46 賛美 聖歌472
 圧倒的な勝利についてダビデは語っている。ダビデの王国が国々の頭とされる。ダビデ自身が知らない民までもがダビデに仕える。どれほど強固な砦を持つ国々も、神が共に居られるダビデの王国の前には力を失い、その砦から出てくる。
 この箇所でもダビデは、神ご自身がダビデを戦いから解き放ってくださったと語る。そしてダビデが国々の頭とされるときに、人々は否応なくダビデの背後に居られる方、世界を治める方を見るであろう。
 わたし達は神こそがわたし達を強くして下さる方だという確信をもって歩んでいるだろうか。今一度、自分の力にではなく、主の力に信頼し、前進していきたい。
 

 

2013/1/23 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 23 賛美 聖歌538
 続いて著者はモーセの信仰について語る。モーセの生涯は、見えない神の臨在と力を認め、神の言葉に対する信頼と服従によって特徴づけられる。本節はモーセの両親の信仰について語る。モーセが誕生したのは、エジプト人が奴隷の民イスラエルが神の祝福を受けて強力になることに恐怖を覚え『「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」(出 1:22)』との命令を発した後のことであった。両親は「その子の美しさ」を見てモーセを、生まれてから三か月間隠したと言われている。「その子の美しさ」についてカルヴァンは「この子の中に、将来の卓越性のしるしのようなものがあったからであり、それは彼の顔に刻まれ、何かしら特異なものを約束していたのである。(カルヴァン新約聖書注解??ヘブル・ヤコブ書新教出版社P253)」と述べている。両親は「わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す(創 46:3)」との神の約束に立ち、幼子を通して与えられた神のみ旨によったのである。この信仰により、解放者はファラオの殺害から守られ、神のみ旨が進められたのである。信仰は神の御旨を成就する。
 

 

2013/1/24(木)担当 高谷満世師 サムエル記下22:47-51 賛美 聖歌529
 詩の締めくくりでダビデは高らかに主を賛美する。命の神、救いの岩である神を賛美するのである。王としてのさまざまな戦勝の功績について述べてきたダビデは、その中でも決して自分の力をアピールすることはなかった。最後に改めて、神をほめたたえる。ダビデは国々の民に対して、自分をあがめるように要請してはいない。神によって勝利を与えられ、油注がれたものの姿は、神に栄光を帰し、その姿を通して、諸国の民が神をほめたたえるように導かれる姿であった。
 「主に栄光があるように」と神を信じるものは願い、口にしているだろう。その言葉にわたし達の生き様が伴っているだろうか。神に従うわたし達が主を賛美し、主に賛美を捧げることを通して、神の栄光が表されていく。神の御名が高く掲げられていくのである。
 

 

2013/1/25(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11:24-26  賛美 聖歌458
 「モーセは成人したとき」と言う句によってモーセが自らの責任によって自らの進路を選びとっていくことを示している。モーセの選択の第一は「ファラオの王女の子と呼ばれることを拒む」ことであり、それははかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選んだのである。モーセは幼かった日々、ヘブライ人である両親のもとで育てられ、自らがヘブライ人であることの自覚を与えられ、ヘブライ人に対する神の約束を教え込まれていた。彼が成人し、二つの道を選択すべき時が到来した。「ファラオの王女の子と呼ばれること」には王族の一員としての特権を享受することであり、この世の栄光が約束されていた。しかし神の民と共に歩む道は困難と窮乏の道であった。しかしモーセは信仰によって神の民と共に歩む道を選んだ。この信仰によって神が意図された解放の御業が進められたのである。
 

 

2013/1/19(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書18:18-23 賛美 聖歌520
 金持ちの議員は財産も名誉も地位もあり、この世においては不足のない豊かな生活をしていた。しかし自分のなかに何か足りない者を感じた。そこで主を訪ね「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。財産はこの世の生活において安全と快楽を与え、良い行い、道徳は栄誉と信頼を得させるであろう。しかしそれらは永遠の命に到達する保証とはならない。「わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハ 14:6)」と言われた主だけが永遠の命に至る道である。