2012/6/25-30

 

2012/06/25(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 6:1-3 賛美 聖歌428
 キリストの大祭司職について教えてきた著者は、5:11-14においてその教えを中止し、このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。と述べて読者が成熟した大人になるように求めた。この箇所では、「基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」と勧める。ここで私たちが注意しなければならないことは基本的な教え、キリストの教えの初歩が不要と言うのではないことである。それらはクリスチャン信仰の基礎であり、極めて大切であって決しておろそかにしてはならないのである。しかしいつまでもそれだけにとどまっていないで、それを基本として更に成熟を目指して歩み出すべきである。
 

 

2012/6/26(火)担当 高谷満世師 サムエル記上26:1-11 賛美 聖歌655
 ダビデは執拗にサウルに付け狙われ、常に危険な状況におかれていた。しかし政治的にも軍事的にもサウルよりもはるかに悪い状況にあるダビデを、神は常に守り、今またサウルの命を彼の手に与えようとしておられると思える場面に遭遇している。神がサウルとその兵士に深い眠りを送り、ダビデがサウルに近づく機会を与えてくださったのである。
 その時、ダビデとともに居たアビシャイは神が敵をダビデの手に渡されたから、サウルを殺させてほしいと願った(8節)。これはダビデにとって大きな誘惑であった。手の届く距離にサウルがおり、容易に殺すことができる。しかも神が与えてくださった機会だからサウルを殺すことはみこころに適っているともいえそうである。しかしダビデは、サウルの命は主の御手の中にあり、神が油注がれた者を打つべき時には打たれるとして手を出さなかった。このような中でもダビデ自身は神の御心を行う僕であることを忘れなかった。
 自分が歴史を動かせると思う時、そうしたいという大きな誘惑に駆られる。神の主権を忘れ、自分がその座に着こうとする。しかしダビデはそうではなかった。私たちもそのように歩みたい。
 

 

2012/06/27 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 6:4-6 賛美 聖歌609
 著者は「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません」と述べる。神の贖いの恵みを知り、信仰を受け入れ、聖霊に与かり、神の力を体験した者がその後堕落するなら再び悔い改めに立ち帰らせることはできないというのである。その理由として著者は「神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」と言う。主は私たちのすべての罪を負って十字架についてくださった。換言するならわたしたちの罪が主を十字架につけたのである。このめぐみによって救いに与かった者が再び罪を犯すなら、それは神の子を自分の手で改めて十字架につけることだからである。
 この箇所は微妙な問題を含んでいる。主はペトロの問いに対し「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」即ち無限の赦しを命じておられる。ヨハネは「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。(?ヨハ5:16-17)」と述べている。また主は「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。(マコ 3:28-29)」と語っておられる。一度救いの恵みに与かった者が罪を犯し、悔い改めに導く聖霊に逆らい続けるなら悔改めに立ち帰ることは不可能である。聖霊に従順な者となろう。
 

 

2012/06/28(木)担当 高谷満世師 サムエル記上26:12-25 賛美589 聖歌581
 サウルを自らの手で殺せるほど近づいたときにもダビデは自らサウルを手にかけることはしなかった。そしてサウルのもとを離れてからダビデはサウルに呼びかけた。主によって自分の命が狙われているのならなだめの供え物によって主が怒りを静められるように(19節)というダビデのことばを聞いたサウルは、この事態が主から出たものではなく、確かに自分の罪であることを認めざるを得なかった。またダビデの血が主の御前を遠く離れた地で流されないように(20節)という言葉を聞きながら、サウルは自らが神に油注がれた者として、ダビデの血を不当に流してはいけないことを悟ったであろう。
 サウルは確かに主に油注がれ、選ばれた王であった。サウル本人が神に背いたとしてもその選びは他の誰によってもないがしろにされてはならないものであった。それは同時に、選ばれて油注がれた者がどれほどの責任を神の前に負っているかということも示している。主に仕える者は立ち止まって自らの責任を再認識しなければならない。
 

 

2011/06/29(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 5:11-14  賛美 聖歌592
 著者は主の恵みにとどまり続ける人を、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらす土地にたとえ、「神の祝福を受けます」と言う。しかし茨やあざみを生えさせ、役に立たなくなった土地は、「やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます」と言う。主は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである(ヨハ 15:16)」と語っておられる。主の恵みにとどまり続け、豊かな実を結び、神の祝福を受け続ける歩みをしょう。
 

 

2012/06/30(土)高谷由紀子師マタイによる福音書22:15-22 賛美 聖歌296
 キリスト者は二つの国籍を持っている。第一は自分の生まれた国の国籍である。それによって国家から生命、財産を保護され、安全な生活を与えられている。そのためには当然ながら国家に対して義務と責任を負っている。キリスト者は信頼される良き市民でなければならない。市民としての義務を怠ることは神の御心ではない。
 同時に天に国籍を持つ者として神に対して責任ある生活をすることが求められる。地上にあって神の栄光を顕す生活が求められる。主は「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われた。