2012/7/2-7

 

2012/07/02(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 6:9-12 賛美 聖歌338
 「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。(ヘブ 6:4-6)」と、厳しい警告を発した著者は読者に対して「愛する人たち」と語りかけ「わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています」と述べる。「もっと良いこと、救いにかかわること」とは「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。(ヘブ 10:32-34)」を指すであろう。「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛」をお忘れになることはないからである。主は「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける(マタ10: 42)」と語っておられる。肉を持って地上を生きている私たちは自らの不完全を嘆かざるを得ない。しかし主は真実なお方であり、私たちが示す真実を受け入れてくださる。
 

 

2012/7/03(火)担当 高谷満世師 サムエル記上27:1-12 賛美 聖歌602
 逃亡生活の中、サウルの心が柔軟になることがまったくなかったわけではない(26章)。しかし、やはりサウルはダビデを憎み、命を狙い続けた。やむを得ずダビデはイスラエルと敵対するペリシテの地に逃れることになった。ここでも彼は知恵を用いて、自分がイスラエルを憎んでペリシテに逃れてきた、庇護の下におかれる必要がある者として振舞った。実際はペリシテにいながらイスラエルを愛し、イスラエルのために敵と戦っていたが、敵の目を欺いてイスラエルの敵たちでありペリシテと友好関係にある者たちと戦っていた。サウルを逃れてペリシテにいる間も、イスラエルに対する愛と忠誠を守り続けたのであった。そこには神の守りがあった。
 命の危機にあるとき、不本意な行動を強いられる時、人から誤解されるような時でも、真実に神を愛して従おうとする者とともに神は居てくださる。
 

 

2012/07/04 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 6: 6:9-12 賛美 聖歌601
 読者が神の名のために示したあの愛とは先日引用したヘブ 10:32-3を指している。彼らは救いに与かった当初、苦しい大きな戦い―あざけられ、苦しめられて、見せ物にされ、このような目に遭った人たちの仲間となったこともあり、捕らえられた人たちと苦しみを共にし、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだ―によく耐えたのである。それは自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っていたからである。これはキリスト者の希望である。この希望を最後まで持ち続けるためには、初めの時の忍耐を持ち続けることが必要である。怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となろう。
 

 

2012/07/05(木)担当 高谷満世師 サムエル記上28:1-24 賛美 聖歌511
 ペリシテがイスラエルに対して戦うために軍を集め始めた。イスラエルにとって大変な危機である。サウルはかつてのように、戦いに出て行くときに神のみこころを知りたかった。神が共に居られて、勝利を与えられるから出て行きなさいという約束を求めた。しかしサウルはすでにノブの祭司たちを皆殺しにしていたので、誰も彼に神の御心を告げる者がいなかった。敵は迫って来るが神の守りの約束は得られない。約束がない以上、戦いに出ては行けないが、否応なく敵は迫ってくる。そのような時、サウルは耐えかねてかつて自ら禁じた口寄せのもとを訪れる。一度神から心が離れて背いた者は、その罪がどんどん重なっていく。皮肉にもこのとき、呼び起こされたサムエルを通して明確に、サウルの不信仰と不忠実の故に神はサウルを離れ去ったと厳しく語られた。
 神に背いていながら、苦境に立たされたときだけ神に頼ろうとしていないだろうか。生涯をかけて主に忠実に歩もう。
 

 

2011/07/06(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 6:13-15  賛美 聖歌450
 著者は信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人の模範として信仰の父と呼ばれるアブラハムを取り上げる。神はアブラハム(アブラム)を召し出すにあたって「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。(創 12:2)」との約束を与え、事あるごとに確認された。しかしその約束の担い手となる子供は与えられず、アブラハム夫妻は年老いてゆく。子供を得ることは肉の目をもっては絶望となった時、神の約束によってイサクを与えられる。しかし神はイサクが12歳になった時、アブラハムに与えられた神の約束の唯一の担い手であり希望であったイサクを犠牲として献げるようアブラハムに求められる。アブラハムはこの要求に信仰によって従ったのである。その時神は御使いによって『「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(創 22:12)』と語られた。
 私たちの信仰の旅路には理不尽と感じられること、理解しがたいことがしばしば起こってくる。しかし、どんな時にも信仰によって従うことこそ祝福の道である。
 

 

2012/06/30(土)高谷由紀子師マルコによる福音書10:46-52 賛美 聖歌236
 盲人バルティマイは道端に座って物乞いをして人々の憐れみを得て日々を暮らしていました。ある日イエスがそこをお通りになることを聞き「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と多くの人々の叱責や制止にもかかわらず叫び続けました。イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、彼は「先生、目が見えるようになりたいのです」と言いました。イエスが「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われると、盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
 バルティマイは自分の必要を率直に、全身全霊をもって願い求め聞きいれられました。わたしたちも信仰をもってひたすらイエスに祈り、従う日々を送りましょう。