≪デボーションの友≫2022/6/6-11

2022/6/6(月) 担当 高谷清師 ガラ 2:15-21 聖歌(総)418  聖歌 417

 パウロは「私たちは生まれながらのユダヤ人であり、異邦人のような罪人ではありません。」と述べる。ローマの信徒への手紙においては「彼らはイスラエル人です。子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは万物の上におられる方。神は永遠にほめたたえられる方、アーメン。」(ロマ 9:4-5)と述べている。ユダヤ人は神によって選ばれ、律法を与えられ、神の民とされた人々である。旧約の時代、ユダヤ人以外の民—異邦人は神の選びの外にある者、律法無き者、ユダヤ人からは罪人とされた。ユダヤ人はこのことを誇りとし、異邦人を蔑み、律法を外形的に守ることに邁進し、それによって自己義を確立し、主張した。それによって傲慢になり、謙遜と真実とをもって神を礼拝することに失敗した。(ルカ18:9-14参照)パウロが「私たちは生まれながらのユダヤ人であり、異邦人のような罪人ではありません。」と言う時、彼はガラテヤの教会に入り込んだユダヤ主義者の過ちを指摘しているのである。

 この過ちはユダヤ人だけでなく、全ての人の陥りやすい者である。日々、自らを吟味しつつ歩もう。

2022/6/7(火) 担当 ラウジー満世師 創世記4:17-26 賛美 聖歌総合版573 聖歌460

 カインはアベルを手にかけて神のさばきを受けた後、父となった。カインの子孫はレメクに至るまで5世代記されている。カインとその子孫は町を築き、芸術家となり、また工業の始まりをももたらした。神から離れて生きるようになってからも、この家の人々は努力して生きている。しかし、順調に見える中でも23節から24節には唐突に傷を受ける人の話や、復讐ということについて言及されている。人間が罪を悔い改めることを怠り、神を離れて生きる世界の現実を見るようである。やはり復讐と暴力と罪は付きまとう。ここまで述べたうえで、25節はカインの罪の時点に立ち帰り、神はアベルに代わる男の子をアダムとエバに与えられたと語る。ここから再び罪から離れた別の世代が起こることを期待させる神の憐れみを見る。

 罪の結果、神から離れて生きる人々にも神は限られた条件のもとに努力してそれが報われる生活を与えて下さる憐れみ深いお方である。しかし、はやり神に罪を犯して神のもとに悔い改めて立ち帰らない生き方を選ぶときに罪は人々の生活の中で存在し続ける。神の前に正しく生きることを求めよう。

2022/6/8(水) 担当 高谷清師 ガラ 2:16 聖歌(総)616  聖歌 580

 パウロは「しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。」と述べている。聖書協会共同訳において「イエス・キリストの真実による」と訳されているところを新共同訳は「イエス・キリストへの信仰によって」と訳している。口語訳、新改訳、文語訳、岩波訳、フランシスコ会訳等も新共同訳と同じように訳している。構文の視点からはどちらに訳しても誤りではないようですが、多くの訳が採用している訳に従いたいと思う。

 16節についてヘルマン・ウォルフガング・バイヤーは

「そうした差別立てとその背後にある満々たる自負をもう一度真っ向から取り上げて、問題の俎上にのぼせることによって、パウロはこれを微塵に粉砕する。それは彼には生命がけの行為であって、だれよりも彼自身が最も辛い思いでそれに体当たりしたに相違ない。すなわちそれは、彼の心も深く執着してやまなかった民族同胞の独一無比の尊厳、いわゆるユダヤ民族の国体の尊厳をば、切り捨ててしまう行為にほかならなかったからである。」(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡P48 NTD新約聖書註解刊行会1979) 

と記している。

 人は誰でも信念をもって生きている。それなくして人は生きることが出来ない。キリスト・イエスを信じる信仰に生きるということはそれを放棄することである。それは辛く厳しい道である。イエスは「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。命に通じる門は狭く、その道も細い。そして、それを見いだす者は少ない。」(マタ 7:13-14)と教えておられる。

2022/6/9(木)担当 ラウジー満世師 創世記5:1-31 賛美 聖歌総合版539 聖歌521

 アダムの系図が改めて記される。これはアベルの死の後にあたえられたセトの子孫である。カインの罪とは関係のない家系を新たに与えられて、今度は再び罪を犯すことのない人々の歴史が刻まれるという期待が膨らむ。淡々と各世代の人々の名前と生涯の年数が記されていく。淡々と記される系図において私たちの注意を引くのがエノクである。彼の死は報告されず、神が取られたためにいなくなった(5:25)と語られる。この箇所でのみ使われる言葉であり、実際にどのような情景であったか想像し難い。ただ神はこのエノクを他の人々とは違った方法で御心に従って取り扱われたということが分かるのみである。ここでは神が人から隠されているこの出来事の中に、人は主の真実と憐れみがあることを知り、望みを置く。

 人間は自分の力で罪を離れて正しく生きることは大変難しい。ただ神の憐れみにより新たな出発が与えられ、神に頼り生きるところに望みを持つことが出来る。私中心ではなく、神中心に生きよう。

2022/6/10(金) 担当 高谷清師 詩 68:13-16 賛美 聖歌総合版532 聖歌514

 詩人は「軍隊の王らはちりぢりに逃げ/家にいる女たちは戦利品を分ける。あなたがたが柵の間に伏していても銀に覆われた鳩の翼/緑色の金に覆われた羽はすでに戦利品。」と詠う。この箇所はカナンのヤビンの圧政に苦しむイスラエルの叫びに応えて神がデボラとバラクによってヤビンの手から民を解放された出来事(士師記4ー5章)を背景としているであろう。ヤビンの将軍シセラを戦車や軍勢や剣ではなくカイン人ヘベルの妻ヤエルによって打ち取られた。月本昭男師は『ここには一貫して未完了形動詞が用いられることからみて、この単元は、士師時代を想起しつつも、来たるべき「ヤハウェの戦い」を詠うのであろう。(『詩編の思想と信仰Ⅲ』P241新教出版社2011)』と述べておられる。

 パウロが「さて、あなたがたは、過ちと罪とのために死んだ者であって、かつては罪の中で、この世の神ならぬ神に従って歩んでいました。空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な子らに今も働く霊に従って歩んでいたのです。」(エフェ 2:1-2)と述べているように、御子イエスの贖いの恵みに与り、罪赦され、神の子とされた私たちもサタンの支配する世に在って様々な苦難に遭遇する。しかし最終的な勝利は主にある。イエスは「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」(ヨハ 16:33b)と教えておられる。堅く信仰に立って歩もう。

2022/6/11(土) 担当 高谷清師 1ペト 5:5 賛美 聖歌総合版569 聖歌545  主が弟子たちに教えられた祈りの第三は「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りであった。その神の御心はすべての人が救われることであった。そのため神は一人子を遣わし、このお方を十字架につけ、救いの道を開かれた。その道は完ぺきであった。人はこの救い主イエスを信じる信仰によって救いに与るのである。私たちが信仰を得る為には自らを空しくして謙り、神の言葉に従うことが求められる。サウルはアマレク人との戦いに勝利した時、神の言葉に従わず、自らの判断に従って滅ぼすべきものを滅ぼさなかった。これに対してサムエルは「主が喜ばれるのは/焼き尽くすいけにえや会食のいけにえだろうか。/それは主の声に聞き従うことと同じだろうか。/見よ、心して聞くことは雄羊の脂肪にまさる。反逆は占いの罪に等しく/強情は偶像崇拝に等しい。/あなたが主の言葉を退けたので/主はあなたを王位から退けられた。」(サムエル記上15:22-23)と述べている。ぺトロは「同じように、若い人たち、長老たちに従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。/「神は、高ぶる者を退け/へりくだる者に恵みをお与えになる」からです。」(1ペト 5:5)と述べている。高ぶることなく、謙って御言葉に従順に歩もう。