≪デボーションの友≫2022/6/13-18

2022/6/13(月) 担当 高谷清師 ガラ 2:15-21 聖歌(総)424  聖歌 423

 パウロは「律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。」と述べる。神はご自分の民としてイスラエルを選び、律法を与えられた。イスラエルはこれを誇りとし、その厳守のために全身全霊を注いできた。それは民族同胞の独一無比の尊厳、いわゆるユダヤ民族の国体の尊厳であった。一方で律法の厳守はユダヤ人の心に傲慢と偏見の罪をもたらした。イエスは「偽善者たちよ、イザヤは、あなたがたのことを見事に預言したものだ。この民は唇で私を敬うが/その心は私から遠く離れている。」(マタ15:7-8)と語っておられる。更に律法の専門家が、イエスを試そうとして「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか。」と尋ねたのに対してイエスは「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」」(マタ22:37-40)と語っておられる。これは律法は人間の力では全うし得ないものであることを示している。

2022/6/14(火) 担当 ラウジー満世師 創世記6:1-4 賛美 聖歌(総)469 聖歌456

 とても不思議なことが書かれている。その当時地上に存在したネフィリムと呼ばれる者たちの説明なのであろうか。難しい箇所だが、神の被造物である人間が神の子らと呼ばれている天的な存在と結婚するということは、創造者である神と被造物の人間の間であり得ないことである。これは人間が被造物としての限界を越えようとする、自分たちの許された範囲を超え出て神と近いものとなろうという罪なのだろうか。神はこの状態を放置されなかった。神は被造物と神ご自身との境界線を明確にし、人の生涯を120年までと定められた。

 人の罪深い心の内には神と同等になりたい、神のようになりたいという欲求がある。しかし、神は被造物が神になろうとする試みを良しとされない。私たち人間は神に造っていただき、神を恐れ、喜んで神に仕えることを通して神の栄光を表す者である。今日も神の栄光を表すために聖霊に導かれて歩もう。

2022/6/15(水) 担当 高谷清師 ガラ 2:15-21 聖歌(総)449  聖歌447

パウロは「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実による(イエス・キリストへの信仰によって義とされ―新共同訳)のだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました」と述べている。使徒言行録においてパウロは「だから、兄弟たち、この方による罪の赦しが告げ知らされたことを知っていただきたい。そして、モーセの律法では義とされえなかったあらゆることから解放され、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」(使13:38-39)と語っている。ヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(Ⅰヨハ 1:7)と述べている。私たちに罪の赦しを得させるのは十字架上で流されたイエスの血潮以外には無く、イエス・キリストへの信仰によって私たちの上に成就されるのである。行いによる自己義ではなく、信仰によって与えられる神からの義に生きよう。

2022/6/16(木)担当 ラウジー満世師 創世記6:5-8 賛美 聖歌(総)529 聖歌511

 ここでも残念な報告が続く。地上で増え広がる人間の内には時の経過と共に悪がはびこり、心は神の御性質とは反対の悪へと傾いていく。この状況をご覧になった神は悔やみ、心を痛め、人を地の面から消し去ることを定められる。神は世界の創造を悔やまれるほどに、悪を嫌われる。そして悪を放置されないという固い決意のもと、ご自分が造られて良しとされたものを滅ぼされる。神は悪に対して毅然と対応される。しかし、神は決して理不尽に、あるいはご自分の気分に任せて気まぐれに被造物を消し去られるわけではない。悪のはびこる中においても正しく生きるノアの姿をしっかりと見極め、主の目に適うノアを滅ぼされることは決してなさらない。

 世の中全体が自覚なく悪に陥るとき、その風潮の中で善を行い続けることに疲れ、それが無意味に見えるような気持にとらわれることが現実にあるかもしれない。しかし神は一人一人の心を見ておられる。そして御心に適う人々の歩みを喜んでくださる。人の評価を受けるためではなく、善であり愛である神の前に生きよう。

2022/6/17(金) 担当 高谷清師 詩 68:16-19 賛美 聖歌(総)532 聖歌514

 詩人は「神の山、バシャンの山/峰を連ねた山、バシャンの山/峰を連ねた山々よ、なぜ妬み見るのか/神が望み、自らの座と定められたあの山を/主が永遠にお住まいになる所を。幾千、幾万の神の戦車。/わが主はそのただ中におられ/シナイから聖所に来られます。あなたは高い天に上り/捕らえた者を引いて行き/人々を貢ぎ物として/背く者さえも貢ぎ物として取られる。/神である主がそこに住まわれるために。」と詠う。神が御自分の民として選び、そのうちに住まおうと定められた民を異邦人は妬み、蹂躙してきた。イスラエル自身も神に選ばれながら、御心に従いきれず、御前に罪を犯し、自らに裁きを招いてきた。

時満ちて神は御子イエスを遣わし、このお方を十字架につけ、その血潮をもって人類すべての贖いの恵みを完成し、このお方を信じる信仰者の群れ―教会―をご自身の選びの民とされた。しかしこの教会もまた地上に在って外部から襲いかかる困難と自らの内から頭をもたげる不信仰に悩まされている。しかし主は「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」(ヨハ 16:33b)と教え、「また、私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタ 10:22)と約束しておられる。堅く信仰に立って歩もう。

2022/6/18(土) 担当 高谷清師 フィリ3:1-11 賛美 聖歌(総)205 聖歌236

 神の御心はすべての人が救われることであった。そして救いはキリスト・イエスに対する信仰によってのみ与えられるのである。それでは信仰とはどのようなものであろうか。新共同訳聖書はこの箇所に「キリストを信じるとは」という見出しを付している。パウロの経歴はユダヤ人社会に在って輝かしいものであった。「生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人、律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者」であった。しかしダマスコへの途上においてキリストと出会い、キリストを知ったことによって彼の価値観と生き方は一変した。自分の意思と価値観によって生きる生から神の御心に生きる生へと変えられた。それによって彼は肉の力をすべて失ったが、失ったものよりもはるかに勝るものを、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義を得たのである。それが彼にとっていかに素晴らしいものであったかは「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」という言葉によって知ることが出来る。  信仰に生きる―それは自分に死んでキリストに生きることであり、多くの犠牲を伴うものである。しかしそれはなにものにも代えがたい永遠の命の道である。