≪デボーションの友≫2022/6/20-25

2022/6/20(月) 担当 高谷清師 ガラ 2:15-21 聖歌(総)540  聖歌 522

 パウロは「律法の行いによっては、誰一人として義とされない」と語る。「律法の行い」とは何を意味するのであろうか。浅野淳博師は

「ユダヤ民族性を根拠とした神の占有と他民肢の排除が背後にある律法諸規定への固執を指し、とくにガラテヤ書では割礼と食中規定とに焦点が置かれている。「律法の行い」は神が約束した契約の祝福を単一のユダヤ民肢が独占することを保証するので、イスラエルをとおして諸国民に祝福が至るという本米の救済目的を損ねることになる。パウロはのちに、これを律法への奢りとして詳述することになる」(NTJ新約聖書注解ガラテヤ書簡P218 日本キリスト教団出版局2017)

と述べておられる。

 ご自身の血をもって私たちの救いを確立してくださった主は「私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。」(マタ 16:18-19)と述べ、また「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる。」(マル 16:15-16)と述べて、教会に福音を委ね、権威を与えてくださった。同時に主は「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マル 9:35)と教えておられる。委ねられた福音と授けられた権威に奢ることなく常に謙虚で仕える者になろう。

2022/6/21(火) 担当 ラウジー満世師 創世記6:9-12  賛美 聖歌(総)606 聖歌572

 当時、神がご覧になった人間社会の有り様は悪がはびこり、人の心も常に悪に傾いていた。神が創造の業を悔いるほどにひどかった。しかし9節に希望となるノアが紹介されている。ノアは社会の人間関係において正しく生きていた。さらに神の前にささげる礼拝の犠牲という神との関係においても全く歩んでいた。このような生き方は暴虐が満ちる地に於いては全く評価されず、むしろ軽んじられただろう。しかし神は腐敗に満ちる時代の中でも差し迫る罪の力に迎合せず、神の前に正しく生き続けるノアに目を留めておられる。

 人々の心に悪が満ちるとき、社会の倫理観が堕落する。クリスチャンでさえもその変化の波に吞み込まれ、本来の正しさを見失う。だからこそ私たちは霊の目を開いて現状を見極め、み言葉に基づいて神の正しさを確認する必要がある。人々が正しく生きる人を軽んじる時でも神はご覧になっている。そして正しい者に目を留め、選び、新たな御業をそこから行われる。神の基準を見失わないように歩み続けよう。

2022/6/22(水) 担当 高谷清師 ガラ 2:15-21 聖歌(総)518  聖歌500

 パウロは「律法の行いによっては、誰一人として義とされない」と語る。この箇所についてヘルマン・ウォルフガング・バイヤーは

「いかなる人間も、「肉」、すなわち自己追求に走って神に逆らうエゴそのものたることを免れられない。たとえ最善の業を成し、功績を立てたときでも、肉たるそのエゴは抜きがたく人間の内に巣食っており、それゆえ、律法に示された神の意志を真に成就することができない。それゆえユダヤ人であっても(ということは、神の律法を知り、これを本気で受けとめるすべての人間にとっても)、律法が要求するところの倫理的、宗教的な業を成し遂げることによって、神から義人として受け入れられる境地に到達することは、全くの不可能事である。こうして義に至ろうとする道は、15節にいう意味での「罪人」に対してのみならず、律法厳守を志す者たちに対しても、閉ざされているのだ。」(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡P49 NTD新約聖書註解刊行会1979) 

と記している。ヘブライ人への手紙は「神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。」(ヘブ 4:12)と述べている。人は全身全霊をつくして律法を遵守し、自己義を主張しようとする。しかし、それを見極めるのは生ける神の言葉である。遜って御言葉の前に歩もう。

2022/6/23(木)担当 ラウジー満世師 創世記6:13-22 賛美 聖歌(総)529 聖歌511

 神がノアに詳細な指示を告げられる。具体的にノアに託される作業を正確に伝えるが、それには明確な目的があった。地に満ちた悪によってすべての肉なるものの終わりが近づいている中で、神はノアとその家族に加えて動物を救おうと意図されている。この働きを神は正しく全く歩むノアとその家族を用いて行われる。明確かつ詳細な指示は淡々と語られ、裁きの中にも贖いの道が開かれていることが分かる。そしてこの裁きを通して刷新された人間と動物を含むすべての肉なるものは、ついに神との契約を結ぶに至ることが示されている(12:8)。

 神はご自身が創造し、命を与えた肉なるものを顧みて命を与えられる。その命を与えられた者は神の前に正しく生きることを求められる。ゆえに悪を行い続ける者は滅ぼされ、神の正しさに適うものが守られて再出発を与えられた。洪水の後に神は二度とこのようなことをしないと言われたが、今も神は人々が正しく全く生きることを求めておられる。神との交わりに生かされている者として、この神の御思いを力の限り実践しよう。

2022/6/24(金) 担当 高谷清師 詩 68:20-24 賛美 聖歌(総)628 聖歌590

 詩人は「たたえられよ、主は、日ごとに。われらの救いである神は/われらの重荷を担われる。神はわれらにとって救いの神、主ヤハウェこそ死からの出口。」と詠う。神の選びの民とされたイスラエルの歴史は決して平坦と安楽なものではなかった。敵対する者達との戦い、あるいは自らの弱さのために主なる神に従いきれずに招いた神の裁き、・・・・・、そのような民を神は憐れみ、赦し、愛してくださり、彼らを虐げる敵の手から解放し、疫病から救い出してくださった。詩人はこのようなイスラエルの歩みの中に顕された神の恵みを数えつつ詠うのである。

 新約の恵み―御子イエスの贖いの恵み―の中に生かされている私たちも「空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な子らに今も働く霊」の支配する「世」に在って、サタンの攻撃や自らの弱さによってしばしば恵みを失ったような状態に陥り意気消沈する。しかしヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(1ヨハ 1:7)と語り、パウロは「最後の敵として、死が無力にされます。

」(1コリ 15:26)と述べている。そして主イエスは「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」(ヨハ 16:33b)と語っておられる。勝利者イエスを仰ぎ、賛美しつつ歩もう。

2022/6/25(土) 担当 高谷清師 Ⅱコリ7:8-10 賛美 聖歌(総)415 聖歌415  「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈る時、私たちの歩みにおいてみこころがなされていることが求められる。テモテへの手紙 Ⅱにおいてパウロは「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。」(Ⅱテモ 3:16)と述べている。私たちの内に神のみこころがなされる―それは私たちの思いではなく神の霊感を受けて書かれた聖書に従って歩むことである。私たちの思いと聖書との間に齟齬が生じる時、自分の思いを棄てて聖書に従うこと―悔い改めて御言葉に立ち帰ることが求められる。Ⅱコリ7:2-16には「教会の悔い改めを喜ぶ」と言う見出しが付されている。イエスは「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある。」(ルカ 15:7)と語られたが、キリスト者の悔い改めもまた教会の喜びであり、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と言う祈りを成就する要素である。日々、御言葉を鏡として自らを吟味し、御言葉を自らのこころとして歩もう。