2014/4/28-5/3

2014/4/28(月) 担当 高谷清師 ?コリ7:1-7 賛美 新聖歌504

 パウロはここから、コリント人から手紙で寄せられた特定の問題に移る。7章においては結婚の問題を扱う。1−7節において一般原則を扱う。1節において「男は女に触れない方がよい」と語っている。当時、いつの時代もそうであるが、禁欲主義を高く評価する人々がいた。彼らは禁欲主義の一つとして独身主義を称賛していた。コリント人の一部も同じ考えを持っていたので、彼らの見解に最大限譲歩して語ったのである。パウロが「男は女に触れない方がよい」と語ったのは、結婚生活に伴う様々な配慮に費やす時間を霊的な事柄のために用いることが出来るといった意味においてであって、結婚自体を汚れたものとする考えに同調しているのではない。結婚は神が定められた恵みであり、主イエスもまたカナでの婚礼の記事が示すように祝福されたのである。
 

2014/4/29 (火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上5:1-10 賛美 新聖歌343

 すでに4章においてシメオンの系図を示した後、ルベンの子孫について記している。長男ルベンの系図が最初におかれていないのはルベンがかつて犯した罪のためであったとはっきり記されている(5:1)。このルベンの子孫の中で10節にはサウルについて記されている。サムエル記においてサウルはダビデの前の王として何度も言及されているが、それに比べて歴代誌でサウルを王として言及している場所は少ない。歴代誌ではダビデをイスラエルの王として大きく扱っている。神が選ばれたのはダビデであって、ダビデを通して進められていく神のご計画にこそ歴代誌は焦点を当てている。
 私たちは様々な視点で歴史を見る。客観的に、残された歴史的資料に基づいて歴史上の出来事をできる限りすべて時系列に置いて歴史を語ることができる。しかし、歴代誌は明確に神が選ばれたしもべ、ダビデを通して進められていく神の業としての歴史を見ている。私たちが歴史を学ぶ時にも、また自分の歩みを振り返る時にも、神がどのように歩みを導いてくださったかということを中心に整理していくときに、客観的にすべてを盛り込んで歴史を記録するときには見えなかった神の導きを見出すことができる。時には立ち止まって過去の歩みを神がなしてくださった御業を探しつつ振り返り、恵みの深さを再認識しよう。
 

2014/4/30 (水) 担当 高谷清師 ?コリ7:1-7 賛美 新聖歌372

 続いてパウロは「みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」と命じる。独身主義の良い点については前節で述べた。しかし独身主義には多くの誘惑がつきまとう。それに抗しきれず、屈して罪を犯すようなことがあってはならない。コリント人の間には不品行が横行していた。そうしたことを避けるためにも、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持つべきである。パウロはこれをコリント人からの質問に答える形で述べているのであって、結婚は不品行を避けるためだけではない。結婚については、パウロは『そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい(エフェ 5:28-33)』と述べている。
 今日の日本における性道徳の乱れは深刻である。しかし聖書は結婚外の性交渉を固く禁じている。キリストの尊い血によって贖われたキリスト者は時勢に流されることなく、神の言葉に固く立ち、真理の道を歩もう。
 

2014/5/1 (木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上5:11-26 賛美 新聖歌312 

 ルベンに続いてガドとマナセの半部族について記されている。ここではヨルダン川の東側に土地を与えられた人々の系図を扱っており、この順序は地理的な理由によって整理されている。これらの部族に関して、二つの出来事が記されている。第一は5:18-22節にある。ハガル人、エトル、ナフィシュ、ノダブの諸族との戦いでは神に助けを求め、信頼していたために祝福、すなわち勝利を得た。しかし第二の出来事(5:25-26)では先祖の神に背き、偶像礼拝に陥ったがゆえにその人々は捕囚を経験することとなった。
 ここを読むときに申命記27章、28章で扱われている呪いと祝福についての原則を思い起こす。神に従うならば祝福が約束され、神に背くならば呪いを受けるのである。私たちは歴史の現実から、個人の経験から、人が生涯において経験する「良いこと」「悪いこと」が必ずしも機械的に服従と不服従に直結しているわけではないことを知っている。しかし、神は神の言葉を聞き、忠実に従う人をどのような状況においても覚えてくださるのである。そして憐れみをもって導いてくださるのである。私たちは神の前に、自分の歩みに責任をもって神に従い、仕える道を選択していこう。
 

2014/5/2(金) 担当 高谷清師 ?コリ7:1-7  賛美 新聖歌373

 結婚生活についてパウロは「夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです」と述べている。この箇所についてレオン・モリスは「パウロの用いているこの動詞は現在命令形なので、習慣的義務〔訳注常にそうせよ〕ということを表している。受けるより与えることの大切さをパウロは強調しているという点が、重要である。結婚とは、自分自身を相手に与えることなのである。(ティンデル聖書注解コリント人への手紙第1P121−122いのちのことば社)」と述べている。自分を空しくして相手に与えることは結婚生活の基本であり、私たちがキリストに仕える基本である。その模範はキリストの十字架である。
 

2014/5/3(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ14:3-9  賛美 新聖歌337

 イエスが弟子たちとともに皮膚病の人シモンの家で食事をしておられた。その時一人の女が非常に高価の香油をイエスの頭に注ぎかけた。これを見た何人かの人は、彼女が香油を無駄遣いしたことを厳しくとがめて彼女を非難した。彼らの言い分は合理的で常識的であった。しかしこれに対して主は彼女が今しかできないことを主のために行ったのであり、彼女の行為について「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」と言われた。この婦人はイエスの死が迫っていることを知らなかった。しかし彼女はできる限りの愛を示したのである。愛は常識と打算を超える。自分の生活の安定を守ることに終始して計算高く自己中心に生きるのではなく、愛と真実をもって主に仕えて歩もう。