2020/9/14-19

 2020/9/14(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 28-30 賛美 新聖歌 108

 イエスは人間としての最後の責務―母への子としての責務、母を愛弟子ヨハネに託すこと―を果たされた後、「渇く」と言われた。十字架につけられた者は燃えるような激しい渇きを覚えると言われる。イエスは人間の全ての罪を負って十字架に架かり、その苦しみを受けてくださったのである。イザヤは「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザ 53: 5)と述べている。またヘブライ人への手紙の記者は「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブ 2: 18)と述べている。イエスは十字架の上で全ての罪の苦しみを受けてくださった。それによって信仰によってイエスに結ばれた者は全ての罪の苦しみから解き放たれるのである。
 
2020/9/15(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書2:1-5  賛美 新聖歌282
 2:1-5では貧しい人々からわずかな持ち物を奪う富裕層の人々の決して満たされることのない欲望が指摘され、預言者は「災いだ」という嘆きをもって語っている。貪欲な富裕層は寝ても覚めても、常に心の中で悪を企んでいる。そして彼らは財力と権力を背景にして企みを思うがままに実行する。本来そこにあるべき貧しい人々や社会的弱者に対する配慮や愛情、律法で定められている弱い者を守るべき義務は全く存在しない。彼らは「同胞を愛さない」という人々に対する悪を行うと同時に、「神の言葉をないがしろにする」という罪をも犯している。
 このような状態はミカ書の時代に限られたものではない。今の時代にもあちこちで見られる。また人々に対する愛や配慮を欠いた自己中心的な満足を求める姿は今の時代にも存在する。人間の罪の姿である。自分を棚に上げることなく、自分の姿をも神の前でへりくだって確認しつつ、人の心に存在する自己中心と貪欲の罪から皆が解放され、救われるように祈ろう。
 

2020/9/16(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 28-30 賛美 新聖歌 111

 ヨハネは「そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」と述べている。イエスの死の時についてジョン・C・ライルは「主の死に関して注意深く覚えておかなければならない一つのことがある。主の死は全く主の自発的な行為であった。主の死は普通の人の死とは異なっていた。(中略)。主の場合、肉体と魂の最終的な分離は、主がそれを意図されるまでは起らなかった。(中略)私たちは仕方なしに死ぬ。しかしキリストは、死ぬことを意図されて死なれた。しかも、主が最適であると判断された時に死なれたのである。(中略)主は朝の九時ごろに十字架につけられ、その日の午後三時ごろに死なれたことを、私たちは知っている。単なる肉体的な苦しみからだけでは、このことは説明できない。全く健康な人物が十字架につけられた場合、時として三日間も生き続けることがあったと言われる。したがって、主が十字架につけられた当日のうちに息を引き取られたということには、明らかになにか思慮深い理由があった。その理由とは、私たちには容易に推測できることであるが、主の贖罪の死が十分に公表され確認されることであった。主は真昼の光の中、無数の観衆の注目の中で死なれた。こうして主の死の真実性は、決して否定できないものとなったのである。このような主の死の自発性や、主の死の時間の自由選択性というものが、この節の根底にあると私は判断する。(ライル福音書講解ヨハネ4聖書図書刊行会1988)P301−302)と述べている。「酸いぶどう酒」について新共同訳スタデイ版は「安いぶどう酒と酢に、「苦いもの」と呼ばれる薬が混ぜられた(マタ27:34)。この混合液は、十字架刑の苦しみを和らげ、死を早めるためのものであろう。」と述べている。主はそれを受けて死なれた。私たちの罪のための主の死は白昼、多くの人々の前で起こったことであり、否定しょうのない事実である。
 
2020/9/17(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書2:1-5  賛美 新聖歌339
 2:3-5を中心に見ていく。力ある富裕層の罪を語った後、主の裁きの宣言がなされる。実際に社会において財力、権力など、力を持つ者が悪を行うとき、彼らの罪を指摘してとどめられる者は存在しないということがしばしば起こる。やりたい放題の罪が野放しにされる。これが力を持たない人々の限界である。しかしこの状況を支配なさっている神がおられる。神は割り当てられた土地を奪い取る者たちを裁かれる。社会的に力ある人々も神の力の前では無力である。神はイスラエルに与えられていた嗣業を取り上げられる。
 社会で権力者による悪が横行する時、多くの民は無力である。しかし人々の力が及ばない悪を裁くことのできる神がおられる。永遠に神がそれを放置しておられるような状況にあっても、神は全てを見ておられ、時が来れば裁きを行われる。社会において力ある者の悪に苦しんでいるなら、あきらめることなく神が義を行ってくださるよう求めよう。また悪を行う人々が神を知り、真の正しさを学び、従うことができるようとりなして祈り、時が与えられたら語ることができるように備えよう。
 
2020/9/18(金) 担当 高谷清師 詩 56:6-8  賛美 新聖歌 390
 詩人は「わたしの言葉はいつも苦痛となります。人々はわたしに対して災いを謀り/待ち構えて争いを起こし/命を奪おうとして後をうかがいます。」と訴える。この訴えの言葉はエレミヤを想い起す。預言者が真実に神の言葉を語る時、多くの偽預言者は時の権力者に迎合して彼らに都合の良い言葉を語り、真実に神の言葉を語る預言者と争い、迫害し、命を奪おうとして後をうかがう。これについて詩人は「彼らの逃れ場は偶像にすぎません。」と語り、「神よ、怒りを発し/諸国の民を屈服させてください。」と祈る。この箇所を口語訳は「神よ、彼らにその罪を報い、憤りをもってもろもろの民を倒してください。」と訳している。偽預言者の語る言葉は神に根拠を持たない。彼らの言葉の根拠は自己保身であり、我欲であり、世であり、罪である。イエスの働きに危機感を覚えたファリサイ派の人々と祭司長たちは「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」と言ってイエス迫害へと進んで行った。世の流れ、趨勢を読んで「自分に何が有利か」ではなく、神の真実によって歩もう。
 
2020/9/19(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 16:13-20  賛美 新聖歌 342

 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行かれたとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えました。それを聞かれたイエスは「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われました。それに対してぺトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。イエスはこれを聞いて「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と言われました。パウロは「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。」(?コリ2:14-15)と述べています。世の人はイエスを肉において知り、偉大な宗教家、道徳家なぞと言います。イエスを霊によって知る時始めて「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えることが出来るのです。絶えず、肉によらず、霊によって歩みましょう。