2020/9/21-26

 2020/9/21(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 28-30 賛美 新聖歌 359

 「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」と記されている。「成し遂げられた」と言う箇所を口語訳は「すべてが終った」と訳し、新改訳は「完了した。」と訳している。イエスは十字架を前にしての祈りにおいて「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」(ヨハ 17:4)と祈られた。パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ 2:6-9)と述べている。神ご自身であられ、栄光の座に着いておられた御子が、父なる神の御心に従い、人となり、十字架に死んでくださった。御子の全き従順によって神のご計画は成就し、私たちの救いは成し遂げられたのである。

 

2020/9/22(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書2:6-7  賛美 新聖歌369

 ほかの預言者同様、ミカも預言を語った時に大きな抵抗に会った。6-7節の言葉はミカの預言を聞いた人々の反応である。ミカの預言が自分にとって都合の悪い人々はそれを素直に受け入れることなく、反論し、預言者の口をつぐませようとする。しかも、彼らは神の言葉とそれを土台として培われてきた信仰によって反論している。神は怒るに遅い方ではないか、主は愛するものを守られるのではないかと主張する。一見正しく見える彼らの反論は人々を惑わす。しかしこれに続くミカの言葉が示すように、彼らはみ言葉を利用して自分たちの歪んだ信仰を正当化しているに過ぎない。

 一見もっともらしく聞こえる主張をみ言葉を利用して押し通すことはこの時代の信仰者だけが行ったことだろうか。私たちもいつの間にか神の愛と赦しに甘えて「何をしても赦される」とか、「神は信じる者の盾となり、守られる」と考えて、神に背く生き方に陥っていないだろうか。神を信じて共に歩む人々とは日々み言葉に照らして反省し、神を愛して神に従う人である。

 

2020/9/23(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 28-30 賛美 聖歌 501

 イエスは頭を垂れて息を引き取られた。この箇所について加藤常昭師は「イエスの死の姿もまた、その主体的で能動的な、自ら死に赴く姿勢を示している。「だれかが、わたしからそれ〔生命〕を取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである」(20:18〉とのみ言葉が、既に記されていた。死を強いられているようでありながら、全く自由な死だったのである。首をたれ、息(プニュウマ〉を引き渡した〈バレドーケン〉という表現のひとつひとつが、それを示すのである。」(説教者のための聖書講解No3062日本基督教団出版局1980)と述べておられる。ジークフリート・シュルツも「この世からついに別れて行く救済者は、父に任せられた業を勝利のうちに成しとげたのである。今こそ彼は、自分の出てきた天的な光の世界に帰り行くのである。」(NTD新約聖書註解4 ヨハネによる福音書452 NTD新約聖書註解刊行会1975)と述べている。天的な光の世界に帰られたイエスは今日、聖霊によって常に私たちと共に居てくださり、守り、支え、導き、御心に適う生涯を全うさせてくださるのである。

 

2020/9/24(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書2:8-11  賛美 新聖歌251

 ミカは人々の歪曲された反論に動揺しなかった。自分の都合の良いように信仰を歪める人々に対して彼らはもはや神の民ではなく、神の敵となったと述べる。神の民であることは生涯自動的に保証されるものではなく、日々神に従うこと、献身することによって保たれることである。実際に反論者たちの生き方を見ると、彼らは女たちや幼子という、本来は神の律法によって保護されるべき人々を安住の地から追い出そうとする(2:10)。自分の欲を押し通し、自分に益をもたらすために神への献身を放棄し、預言者を通して語られる警告を拒否し、神の言葉を歪める。それに対して真の神の言葉を語り、警告をする預言者は彼らの主張に惑わされることがない。

 信仰者が正しい神との関係から意図せずして逸れてしまい、神との親しい関係を回復する必要がある時にはまず自分の状況に気づき、罪を悔い改めねばならない。そのためのきっかけを与える神の警告を聞く耳を持つことが第一歩である。そのような神の語り掛けを私たちも聞くことがあるかもしれない。その時には素直に神の警告を聞くことができる者でありたい。

 

2020/9/25(金) 担当 高谷清師 詩 56:9  賛美 新聖歌 195

 詩人は「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に/それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」と祈る。敵―戦いを挑む者・陥れようとする者―によって絶えず踏みにじられ、多くの者が戦いを挑んでくる状況の中で、詩人は涙を流し、神に憐れみを求めて祈ってきた。その祈りは神の記録に載せられ、その涙は神の皮袋に蓄えられている。この箇所についてA. ヴァイザーは「義人の悩みが神に見すごされるはずもない。神の前では、眠られぬ夜も苦痛の涙にぬれた時も無益ではない。悩みは神の側にいわば記帳され(マラ3:16、ヨプ19:23参照)集積された資本である(皮袋に集められた涙のたとえに関しては、とりわけパウル・ゲルハルトの歌「わたしは心と口をもってあなたに歌う」の9節「あなたはキリストを信じる者がいくたび泣き、いかに悩むかを数えたもう。いかに静かに流した涙も、あなたは集め貯えたもう」参照)。祈り手の希望の根拠は、この深い個人的な神関係に基づく信頼にある。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P103ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。神への信頼においてのみ、私たちの希望はある。

 

2020/9/26(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 12:4-7  賛美 新聖歌 311

 クリスチャンはこの世において多くの困難や危険に見舞われることがあります。世の権力者やサタンの攻撃に遭い、迫害され、殉教に追い込まれることがあるかもしれません。しかし主は「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」と言われます。五羽をニアサリオンで売られている雀の一羽さえもお忘れになるようなことはない神様は、たくさんの雀よりもはるかにまさっているあなた方をお忘れになることは決してありません。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れるのではなく、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方を畏れつつ、歩みましょう。