2012/11/5-10

 

2012/11/5(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10: 23-25  賛美 聖歌340
 更に著者は「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか」と勧める。クリスチャン生活は何十年にもわたる長い道のりである。その間には疲れを覚える時があるかもしれない。また教会にはいろいろな人々が集まる。中には気の合わない人々があるかもしれない。そのような時、「あの人と顔を合わせたくない」「あのような人と同席したくない」と言う思いがこころを占める時があるかもしれない。そして集会を休もうという誘惑に駆られる。しかしそれは共同体の援助なくしても信仰告白を守り、神の祝福を受け続けられるという傲慢さによるのである。これに対してパウロは「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい(ロマ 15:7)」と述べている。わたしたちは栄光のゴールに至る日まで集会を励み、互いに祈り合い励まし合って信仰を守り通そう。
 

 

2012/11/6 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下16:1-14 賛美 聖歌472 
 ダビデは逃亡中にサウルの家の縁の二人の人物に出会う。シムイの呪いの言葉はダビデにとって非常につらく、耐え難いものであっただろう。アビシャイがダビデに、呪いの言葉を浴びせるシムイをそのままにしておくのかとたずねたときにも、ダビデは自ら手を下さなかった。シムイが語った、神がダビデの罪をダビデ自身の上に返された(8節)という言葉を用いて、ダビデ自身も「主が・・・呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない」(12節)と語っている。
 ダビデ自身、極限状態で息子から逃亡している。そのようなときにさらにこのような呪いの言葉を浴びせられたならば、容易に感情的になって自らの手で報復したくなるだろう。しかしここでもダビデは主に自分の命さえもゆだねた。ダビデもほかの人間と同様に決して完璧であったわけではない。罪を犯したこともある。しかし、彼の強さは、自らの不完全と罪を認め、その報酬については神の手にゆだねる信仰を持っていたことである。私たちもそうありたい。
 

 

2012/11/7 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:23-25 賛美 聖歌622
 この箇所で更に一つの事柄について考えておきたい。著者は「かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから」と述べている。「かの日」とは主イエスの再臨の時である。わたしたちは今、主イエスの初臨と再臨の間に生きている。この時代が終末の時代である。初代教会の時代から再臨は近いと語られ続けてきた。そして初代教会の時代から再臨の切迫性に疑問を投げかけた者たちがいた。ペトロは「次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。『主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。』(?ペテ3:3-4)」と述べている。これに対しペトロは「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです(3:8-9)」と述べ、「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます(?ペテ3:10)」と警告している。
 主の再臨が語られてから2000年近い年月が経過している。これは私たちの感覚では実に長い時間である。しかし主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようなのである。ハバククは「定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない(ハバ 2:3)」と語っている。一日一日を主のみ前に誠実に歩もう。
 

 

2012/11/08(木)担当 高谷満世師 サムエル記下16:1-14 賛美 聖歌521 
 ダビデは明らかに予想だにしなかった突然の危機に直面していた。彼が築いてきたすべてが聞きに曝されていた。それは王として築いてきた地位だけではなく、ダビデと神ご自身との関係やダビデの信仰にもかかわることであった。この逃亡は過去にダビデがサウルから逃亡したときのことを思い起こさせる。まさにダビデは予期せぬ方法で、すべてを神にゆだねる決心を再び迫られた。ダビデは神を信じて自身を委ねたが、そのダビデを赦してくださるか、あるいは裁きを下されるかはまったく神の主権の元にあり、ダビデの思いや策の及ぶ範囲ではなかった。
 ダビデほど神に愛され、選ばれ、祝福された王が一瞬にしてこのような苦境に立たされていることは驚きである。どうしてほかの王たちではなくダビデがこのような危機に会ったのだろうかと問いたくもなる。ダビデでさえも罪を犯してしまう人間であり、すべての人が常に神の前に自らを戒め、へりくだって歩まなければならないことを教えられる。今日も御言葉を握り、主の前に正しく生きよう。
 

 

2011/11/9(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:26-29  賛美 聖歌511
 この箇所において著者は真理の知識を受けた後、即ちキリストの救いに与かった後にも故意に罪を犯し続ける人々に対し厳しい警告を発している。彼等の罪のためのいけにえは、もはや残っていない。その様な人々に残っているのは審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけである。ヨハネが「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます(?ヨハ 1: 9)」と述べているように、聖書はキリストの救いに与かった後にも弱さのために、無知のために、あるいは気付かずして犯した罪のために赦しを約束している。しかし故意に罪を犯し続けることは、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱することである。彼等の罪のためのいけにえは、もはや残っていないのである。全き畏れをもって歩もう。
 

 

2012/11/3(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書 17:11−19 賛美 聖歌461
 イエス様がエルサレムに上られる途中、ある村に入られた時、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。彼らの求めに応えてイエス様は彼らを癒された。ところが癒されたことに感謝するためイエス様のもとに戻ってきた者はたった一人だけであった。 わたしたちは日ごろ多くのことを主に求め、主はそれに応えていてくださる。しかし私たちは受けた恵みに対して感謝しているだろうか。求めるだけでなく、感謝をささげるものとなろう。