2018/12/3-8

2018/12/3 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11:1-16 賛美 新聖歌 211
 ヨハネによる福音書11章はラザロの復活を扱っている。そして新共同訳聖書は11:1-16に「ラザロの死」という表題を付している。この箇所にはラザロの家族が紹介されている。この家族はマリア、マルタ、ラザロであった。マルタはイエス様を迎えた時、接待のためにいろいろ気を使い、忙しく立ち働く人であった。彼女は各方面に気を配り、落ち度なく物事を進める行動の人であったと言えるであろう。マリアは姉が忙しく立ち働いている時にもイエスの足元に座ってイエスの話に聞き入っていた人であった。また、彼女は「主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」と言われている。彼女は物事を深く考え、真理を求める人であった。このように、ここに登場する三人は各々、性格を異にする人々であった。しかし聖書は「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」と記している。
 私たち人間は各々性格、体格、容姿、能力・・・・・等々を異にしている。しかしイエスはそれらの相違を超えて私たちを愛してくださるお方である。私たちは自分の欠点を知らされ、自信を喪失し、自己嫌悪に陥ることがある。しかしそのような時にもイエス様の愛の御手は私たちの上に置かれている。

2018/12/4(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書46:13-26 賛美 新聖歌341
 いつの時代にも強大な軍隊を擁する世界の超大国が、戦争で徹底的に打ち負かされるということを誰が想像するだろうか。しかしエレミヤは明確に、当時の大国エジプトが北からの敵であるバビロン王ネブカドレツァルによって打ち負かされるという。人々が容易には想像できないこの状況を、エレミヤは様々な比喩を用いて豊かな表現で大胆に語る。エジプトは確かに美しい雌の子牛が象徴するように豊かで裕福な国であったが、この平和で穏やかな暮らしは北からの敵の一撃によって奪われると言う。世界がこのような出来事を見るならばなぜこの超大国が敗れたのかと様々な分析をして、兵士の結束力や、武器の性能や、軍隊の規律や情報収集能力など、ありとあらゆる可能性について探る。また、敵がいかに強大か、その敵の背後にあって陰で操っている者たちの力などを考えるかもしれない。しかし神はこのエジプトの敗北もイスラエルの神、万軍の主の支配の中に起こると明言される。
 すべては神の御手にあると告白しながら、私たちの実生活においてはこの確信からどれほどかけ離れ、隔たった態度と信仰をもって歩んでいることだろうか。すべてのことの背後に歴史と世界を導く神が居られることを思い起こそう。

2018/12/5(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:1-16 賛美 新聖歌 196
 彼らの家族の一人、ラザロが病気に罹った。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。この箇所についてジョン・C・ライルは「この姿は、悩みのうちにあるすべてのキリスト者が見習うベき模範である。マリヤやマルタのように、まず第一にキリストに申し上げるべきである。祈りによって私たちは、彼らと同じことができる。ヨブが試練の中でしたのも、このことだった。何をさておいても彼はまず「礼拝し」、「主の御名はほむべきかな」と語った(ヨブ1:20、21)。ところが、アサ王は病気になった時、「主を求めることをしないで、逆に医者を求めた」(?歴代1:16:12)と述べられている。(ライル福音書講解ヨハネ3P23聖書図書刊行会1987)」私たちは試練に遭った時、慌てふためき、右往左往することがある。しかし真っ先にすべきことは祈りである。

2018/12/6(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書46:27-28 賛美 新聖歌315
 46章の最後に見られるこのわずか二つの節はエジプトの敗北と崩壊に新たな視点を与える。エジプトの敗北を目の前にして、イスラエルはエジプト以上に強大な軍隊を誇るバビロンを恐れた。しかし脅えるイスラエルに対して神は「恐れるな」(46:28)と語りかけられる。これは根拠のない気休めなどではなかった。なぜならこの語りかけには確固たる根拠があったからである。それは神が彼らとともにおられるという事実である。そしてこの神がイスラエルを正しく懲らしめ、導いていかれるからである。
 人は戦いのあるところで、その戦局を見て、予測できる結末に一喜一憂する。大きな時代のうねりの中では一人の人の能力や現状に基づいて安心したり不安になったりする。しかし、共に歩んでくださる聖なる神がともにいてくださることにおいて恐れが消え、不安がなくなる。当時のイスラエルに対してだけではなく、今日の私たちにも「恐れるな、私がともにいる」と呼びかけてくださる主の声に頼るところに私たちの平安と力がある。

2018/12/7(金) 担当 高谷清師  詩 40:4-5 新聖歌 38
 詩人は「いかに幸いなことか、主に信頼をおく人/ラハブを信ずる者にくみせず/欺きの教えに従わない人は。」と」詠う。この箇所を新改訳2017は「幸いなことよ 主に信頼を置き、高ぶる者 、偽りに傾く者たちの方を向かない人。」と訳している。また岩波訳は「幸いだ、ヤハウェをおのが頼りとし暴君らにも偽りに与する者らにも向かわなかった男。」と訳し「「暴君ら」は一ラハブ」(89:11)の複数形。この一行の七十人訳は「空しいことにも偽りの狂気にも」。」との注釈を付している。この箇所についてカルヴァンは「ダビデは自分の救いを通じて, どのように確かな望みの根拠が、すべての信仰者に与えられているか、すなわち、この世のすべての誘惑を退けて、彼らはすべて神の保護のうちにみずからを置き、ただ神だけに寄り頼む者が幸いであるということだけでなく、あらゆる反対の望みは、偽りで呪われていることを確信している、とくりかえして語る」と述べ、続けて「高慢に思い上がった人間が、あらゆる幸福の絶頂を、みずからの野心や欺瞞や強奪やたばかりのうちに置いて、神を軽侮するのを目にするとき、彼らに倣おうとする邪曲な嫉妬心が、直ちにわれわれを捕える。ことに、万事が彼らの願い通りに成就するような場合には、同じことを試みようとする空しい望みが、われわれを唆かすのである」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P35新教出版社1971)と述べている。
 悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。これに対してイエスは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」と言って悪魔の誘惑を退けられたのである。常にイエスを見つめ、誘惑に勝利しょう。

2018/12/8(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 18:9-14 賛美 新聖歌 191
 この箇所はイエス様が自分は正しい人間だとうぬぼれて他人を見下している人々に対して話されたたとえ話が記されています。神様の前でファリサイ派の人は「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と祈りました。一方、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈りました。主は「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と言われました。私たちに求められるのは自分の義ではなく、神によって与えられる義であり、自らを低くして神の憐れみにより頼み、福音を信じる信仰によってのみ与えられるのです。”,,554″