2020/2/10-15

2020/2/10(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:1-5 賛美 新聖歌 412

 ヨハネは「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハ 13:1)と記し、地上に残していく弟子たちに対してイエスが語られた教えを131-1633に記している。それに続いて地上に残していく弟子たちの為にささげられた祈りを記している。この部分は「大祭司の祈り」と呼ばれている。

 最初にイエスは「父よ、時が来ました。」と語られる。この箇所について森野善右衛門師は「かつてイエスはしばしば「わたしの時はまだ来ていない」と語られた(2:47:67:308:2076では特に、「決定的な時」を表わす「カイロス」という言葉が用いられていることは注目される。「時が来たというのは、ひとの気まぐれな欲望によって定められた時ではなく、神から定められた時だからである」(カルヴアン)。周囲の人びとにとって、今こそその時であると思われるような時にも、イエスは「私の時はまだ来ていない」と言われる。このくいちがいはどこから来るのか。人びとはいつも自分の都合に合わせて時のよしあしを定めるが、しかしイエスはいつも父なる神の意志の実現という基準に合わせて時を考える。この点に「時」の理解、その決定の基準のちがいがあらわれる。神の招きが来ているのに、私たちはいつも自分の都合を主として、それを断わっていることが多いのではなかろうか(ルカ141524)」(説教者のための聖書講解?331011日本基督教団出版局1980)と述べておられる。自分の都合ではなく、「神の時」を知り、従う者となろう。

 

2020/2/11(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書4:6-13  賛美 新聖歌178

 形だけは礼拝をささげながら、心から神の前に出ていない人々に対して、神は様々な形で彼らに警告をされた。食べ物が供給されなくなり、雨が止められ、様々な病気で作物は実らない。さらに疫病が襲う。驚くべきことに、これらのことは神の御心に従ってなされているという。神はこれらの出来事を通して民がご自分に帰ること、すなわち悔い改めることを待っておられた。人々は様々な災いが襲う中、疲れ果てて神に見捨てられたと感じ、神に対して怒りすら抱いたのかもしれない。しかし、神にとってこれは民がついには神に立ち返るようにとの警告であった。神は忍耐を重ねて彼らを待っておられた。しかし彼らは度重なる災いの中に、神の悔い改めへの招きを聞くことが出来なかった。

 私たちが困難に出会うとき、時にはそれが神からの警告と悔い改めへの招きであるかもしれない。様々な出来事の中に神の御心を尋ね求めよう。

 

2020/2/12(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17:1-5 賛美 新聖歌 275

 森野善右衛門師は更に続けて「「私の時」とは何か。ここで、「イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、この世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し抜かれた」(13:1〉という一句を、この章全体の導入句として置いてみることは適当であろう(ブルトマン)。「自分の時」とは、「この世を去って父のみもとに行くべき時」、すなわち弟子たちとの別離の時であり、地上のイエスと弟子たちとが直接的に親しく交わることのできる時は終わって、今や「啓示の間接性」(プルトマン)の時、したがって「見ないで信じる」(20:29)信仰の時に移って行く時である。「自分の者たち」とあって「弟子たち」という言葉が用いられていないのは注目される。そこでは、神の子、啓示者イエスを信じる人たちすべてのことが考えられている。父なる神と御子イエスとの関係は、さらに啓示者イエスとイエスを信じる人たちすべてとの関係にまで、時と場所との限定を超えて広げられるのである。」(説教者のための聖書講解?3311日本基督教団出版局1980)と述べておられる。ぺトロもまた「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」(?ペト1: 8)と述べている。

 今を生きる私たちはイエスを肉の目で見ることはできない。信仰においてイエスを見、信仰においてイエスと出会うのである。信仰によって歩もう。

 2020/2/13(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書5:6-13  賛美 新聖歌369

 アモスは人の死を悲しみ、悼む挽歌の形式を用いて語っている。イスラエルの民が祭りに集まっている喜びの最中に、彼は人々がそれと分かる方法でイスラエル自身の死を悼む歌を歌い、人々の注意をひいている。祭りの場には最も似つかわしくない語りである。それにもかかわらずアモスは人に嫌われるであろう死を思わせる預言を用いて、イスラエルの民に対して、彼らは実際に死を迎えると告げる。これも究極的な警告である。形ばかりの礼拝をささげて神に近づいていると勘違いしているイスラエルの「信心深い」人々の現実は神から離れている人のような死である。アモスはなぜこのような祭りの喜びに水を差す行為をしたのだろうか。それはアモス自身の民に対する必死の呼びかけであり、心からの悔い改めの呼びかけであった。

 真の神の愛から離れて日常の満ち足りた快楽の中に浸る人々は、現在の生活の快適さは手に入れていても、本当の命は失っている。私たちも気づかぬうちにそのような状態に陥ることがないよう、日々神様に命をいただいていることを覚え、感謝し、そのうちに留まろう。

 

2020/2/14 担当 高谷清師 詩 51:3-4 賛美 新聖歌 225

 ナタンがダビデの罪を指摘した時、ビデは「わたしは主に罪を犯した。」(?サム12:13)と答え、苦悩をもって罪を認めた。これに対してナタンは「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」(?サム12:13)と語る。ここで詩人は罪の赦しを求めて祈っている。「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。」と。この祈りは「主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」」(出  34:6-7)とのみ言葉に基づいている。

 パウロは「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェ 1: 7)と述べ、ヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(?ヨハ 1: 7)と述べている。恵みの時代に生かされている私たちには信仰により、御子の血潮による罪の赦しが備えられている。常に恵みの内を歩もう。

 2020/2/15(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 17:11-19 賛美 聖歌 265

 重い皮膚病を患っている十人の人が「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と懇願した。この人たちにイエスは「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。自分が癒されたことを知った一人が大声で神を賛美しながらイエスのもとに戻って来てイエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。イエスは「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」と言われ、その人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われた。救いに与るのはその人が選民に属するか否か、教会に属するか否かではない。その人の内に生きて働く信仰によるのである。日々祈り、生ける信仰に歩もう。