2020/2/17-22

2020/2/17(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:1-5 賛美 新聖歌 282

 イエスの祈りの第一は「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」であった。「時」とは、先に引用したように、「イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、この世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し抜かれた」(13:1〉と記されている「時」、イエスが十字架につかれる時である。十字架、それは肉の目には苦悶と死、恥辱と敗北の姿であり、栄光からは程遠いものである。これを見た弟子たちは失望落胆し、離れ去った。しかしそれは神のご計画の成就の時であり、イエスが栄光を受けられる時であった。パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(?コリ  1: 18)と述べ、また「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ロマ 1:16)と述べている。イエスの栄光、それは信仰によってのみ、見ることが出来る。
 
2020/2/18(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書5:14-15  賛美 新聖歌396
 率直な招きである。善を求めるということは単に道徳的な生き方への勧めではない。それは神を求めて、神の御心に従うことへの招きである。さらに神との生きた交わりの中に留まるように呼び掛けている。これこそが神への献身である。民が本当に生きるということは神が共にいてくださるという、神との交わりとは切り離せないものである。しかし、ここで気を付けなければならないのは、民が善を求めて神の御心に従うならば、必ず神が憐れんでくださるという保証が確約されているのではないという事実である。神が民との交わりを回復してくださるか否かはあくまで神の権威のもとにある。そして民の服従を見て神が交わりを持ってくださるなら、それは憐み以外のなにものでもない。
 「良いクリスチャンとして生きる」ことを通して神を操ろうとしていないだろうか。私たちは忠実に神に仕える。真実の愛をもって神に従う。しかし、これによって神から恵みを引き出すことはできない。ただ愛に満ちた神が「憐れんでくださることもあろう」(5:15)と言いうるのみである。憐み深い主に今日も望みを置いて歩もう。
 

2020/2/19(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17:1-5 賛美 新聖歌 165

 イエスは「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために」と祈られた。パウロは「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ 2:9-11)と述べている。森野善右衛門師は「イエスの栄光化は、十字架の死の後に、イエスが地上を去って高く挙げられ、父なる神の栄光と一つになることによって完成する」(説教者のための聖書講解?33P11日本基督教団出版局1980)と述べておられる。イエスは十字架と復活の後、天に昇り、神の右の座に着かれることによって以前に持っておられた栄光を受け、ご計画の成就により、神の栄光が顕されたのである。私たちが為すべきことはこの栄光の主を賛美し礼拝することである。
 
2020/2/20(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書5:16-17  賛美 新聖歌339
 5章では神の迫り来る裁きについての警告がなされている。この裁きが下されたならば町中に死者を悼む悲しみの声が響き渡る。しかし同時にこの裁きを回避する可能性として主を求めて生きる道も示されている。それを踏まえて16節では主が決定的な裁きの結果として人々が死者を悼む嘆きの声が起こると断言されている。ここではこの裁きが町中に広がるものであると言われる。神に頼らず、神に背き続けた人の上に等しくこの裁きがもたらされる。金持ちは、彼らが虐げてきた農夫に死者を嘆くための挽歌を依頼しなければならない。彼らが誇りとしてきたぶどう畑にも嘆きが起こる。
 アモスは神の裁きがどのように起こるかという点については語らない。ただ警告を受けていても最後まで聞き従わなかった人々には決定的な裁きと死が避けられない現実として臨むことを伝えた。恵みの神は義の神でもあることを思い起こさせられる。神の御声を―たとえそれが自分にとって意外なことや不都合に思えることでも―しっかり聞き取る耳を持ち、またその導きに従おう。
 
2020/2/21 担当 高谷清師 詩 51:5 賛美 新聖歌 240
 詩人は「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。」と告白する。この箇所についてA. ヴァイザーは「真の悔い改めの第一歩は、罪の明確な認識である。祈り手を離れない罪の意識の厳しさ、また自己への誠実と同時に神に向かって開かれていることを無条件に求める意志とが、「わたしはわが咎を知り、わが罪はつねにわが前にある」との告白に現れている。それは良心の痛みからくる逃避的な気分ではない。それは自分の責任を自覚した人から出た震憾すべき明確な認識であって、どんなに好都合であろうと自己欺瞞をことごとく退け、事柄をあるがままに見るものである。たしかにこの自分自身にとらわれない勇気と、客観的な自己認識の姿勢の中には、人間を内心から罪より引き離して自分自身をはっきりと知る力がある。この力が詩人に与えられたのは、彼が祈りの中で、絶対に避けられない神の現実の前に置かれていることを悟ったからである。その現実か彼に宣告を下し、彼はまさに見えざる糸でそこに引かれていることを感じたのである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATD・NTD聖書註解刊行会1985、P75−76)と述べておられる。神は「わたしはある」と言われるお方であり、厳然と立っておられるお方である。神の前に立つとき、自己憐憫と甘えを排し、客観的に真実をもって自分を見つめることが大切である。
 

2020/2/22(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 23:39-43 賛美 新聖歌 32

 イエス様が十字架に架かられた時イエス様と一緒に二人の犯罪人が十字架につけられていました。そのうちの一人は自分の罪を悔い改めることをせず、議員たちと同じように「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」とイエス様を罵っていました。これに対してもう一人の犯罪人は「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」と窘め、更に「この方は何も悪いことをしていない。」と言い、イエス様に向って「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願いました。これに対してイエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。この記事から私たちが御国に受け入れられる為に求められるのは悔い改めと信仰であることが分かります。罪を悔い改め、信仰によって歩みましょう。