2020/2/24-29

 2020/2/24(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:1-5 賛美 新聖歌 520

 イエスはかつて「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。」(ヨハ 5:19-23)と語られた。そして今、「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。」と語られる。イエスは神から与えられたこの権能によって、父からゆだねられた人すべてに永遠の命を与えることがおできになるのである。ぺトロは議員、長老、律法学者たちの前で「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4:12)と語った。イエスだけが永遠の命の与え主、救い主である。

 

2020/2/25(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書5:18-20  賛美 新聖歌284

 「主の日」についてアモスは明確な視点から語っている。それは決して民から歓迎されるものではなかったし、また民の視点と真っ向から対立するものであった。この預言が、民が集まる喜びの祭りの日に語られたことも重要である。祭りの日に、民はかつて神が他国との戦いに介入し、奇跡的な勝利を与えてご自身の力を示してご自分の民を守ることを思い起こし、神をほめたたえ、さらにアモスの時代においてもかつてのように民の中にご自身を示し、勝利を与え、救いを与えられることを期待したからである。

 アモスが語り掛けるこの民は、主の日をただただ自身の救いの時、神の圧倒的な力によって勝利を得る日と考えて待ち望んでいた。つまり、無条件に自分にとって都合の良い日、喜びの日であると思っていた。そんな中でアモスの言葉は民の思いとは全く異なる主の日の到来を告げる。民には驚きの宣言として響いただろうか。それともご都合主義の彼らには届かなかっただろうか。いつの時代にもただ心を開いて神の言葉を受け止め、神の前に立って自分を見つめることの難しさがある。私たちは自分の都合のよい神、自分の意のままに操れる神を求めるという罪を犯すことがないように、霊の目を開かれて神の言葉を聞こう。

 

2020/2/26(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17:1-5 賛美 新聖歌 344

 イエスは「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と語られる。「知る」という言葉について森野善右衛門師は「その人を知るとは、ただ外側から観察して、いろいろなデータを集めて知るということではなく、その人ともっと深く内的に交わることによって、男と女とが心とからだにおいて一つの交わりに入るように、その人を全体として知ることである。神を知ること、イエス・キリストを知ることが永遠の命である、ということは、ただ量的知識として、文献などを通していろいろ調べて知るということではなく、「我」と「汝」との人格的な交わりを通して初めて知ることができるようなことであり、そのような知識は命を与えるのである。」(説教者のための聖書講解?3312日本基督教団出版局1980)と述べておられる。イエスが「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(ヨハ 17:21)と祈られたような交わりであり、パウロが「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(フィリ3:8-10)と述べているように知ることである。全身全霊をもってキリストを知ることを求めよう。

 

2020/2/27(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書5:18-20  賛美 新聖歌202

 先日、同じ箇所からアモスが警告した、主の日は民の待ち望んだ輝かしい主の日とは全く異なることを学んだ。では、民のご都合主義によって脚色されない主の日とはどのような日であろうか。アモスは言葉を濁すことなく、それが闇であり、何とか一つの危機を逃れて助かった、安全だと思った矢先に突然思いがけない危険に直面して驚愕する日であると語る。「主の日」は民のために神が都合の良いことをしてくださる日ではなく、神の本来の姿、義を求める神、正義を行う神の御姿が現される日である。この日にはこの義なる神に背く者は、たとえ「選びの民」と自負しているものであっても特例的に受け入れられることはないのだ。

 人は神を信じて歩む中で知らずしらずに神を自分の願いを満たす小道具のように見做しているかもしれない。「主の日」を待ち望むにあたり、それが救いの日となるよう、神の御心を日々探し求め、正しく、主に喜ばれる道を歩もう。

 

2020/2/28 担当 高谷清師 詩 51:6  賛美 新聖歌 394

 詩人は「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。」と告白する。この箇所についてA. ヴァイザーは「人は罪の深さを知る時にはじめて、恵みの深さを体験する。ただしこのことは、罪が究極の存在である神との関係の中で見られる時にのみ起こる。人を救いうるものは神の憐れみだけであるから、祈り手は神の前で「あなたにだけ罪を犯した」と告白しなければならないのである。この言葉は、人間に対して犯した過ちは例外であるかのように、罪を限定しているのではない。逆にここでは罪は、誰に向かってなされたのかを問うことなく、神との関係という大きな枠の中で考えられているのである。どんな罪も、ぎりぎりの所、神に対するものである。なぜなら罪の中には、「神のみ前で悪」を行い、そのために神との生ける接触を破壊する人間の意志の根本姿勢が反映しているからである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P76)と述べておられる。人類最初の罪、アダムによる罪もまた神の御心に対する背きであり、それは神との生ける接触の破壊をもたらした。今日も御心に沿う歩みをしょう。

 

2020/2/29(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 11:15-19 賛美 新聖歌 195

 イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。神殿は、庭を含めた境内全域が聖なる場所であり、祈りと礼拝の場所であった。しかしイエスの時代には巡礼者たちに便宜を図るという名目のもと、商売の場所となり、肉の欲望を追及する場所となっていた。主は聖なる場所を冒涜することに対して憤られたのである。イザヤは「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(イザ 56:7c)と述べている。新約の時代、教会は礼拝をささげる場所である。教会を聖別し、信仰生活を大切にしょう。