2020/3/2-7

 2020/3/2(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:1-5 賛美 新聖歌 355

 イエスは「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と語られる。「知る」という言葉については2/26の箇所で述べたとおり「我」と「汝」との人格的な交わりを通して初めて知ることができるようなことであり、聖霊の助けの中で可能なことである。聖霊によらず、肉の力と勢いによって「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と語ったぺトロ、同じように言った皆の者(マコ 14:30-31参照)は数時間後、自分の身に危険が迫りそうになるや、「ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。」(マコ 14:71)のである。しかし、聖霊に満たされたステファノは「世」によって命奪われつつある中で「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言い、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈り、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言って眠りについたのである。ここにイエスを知る者とされた者に与えられた恵みがある。

 

2020/3/3(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書5:21-24  賛美 新聖歌366

 神が与えられた律法に従って定められたいけにえをささげて神の前に出て礼拝し、祝祭を守っているイスラエルの人々はこの言葉をどのように受け止めたのだろうか。驚いただろうか。むしろ、何を言われているのかわからず、ポカンとしていたか、あるいはこの言葉を気にも留めなかったかもしれない。ここで神は自ら語り、辛辣な指摘を並べてあらゆる礼拝を批判された。それはあくまで民自身の礼拝であり、自覚していたか否かに関わらず、この礼拝が彼らにとって神からの恵みを引き出す道具になっていた。彼らが神を愛して感謝する心から自然に出てくる正義と恵みの業は、民の中には見られなかった。

 当時のイスラエルだけではなく、キリスト教の歴史においても、いつの間にか宗教行為が神への真心からの礼拝から逸脱してしまうということを、クリスチャンも何度も経験している。祝福を引き出すための手段としてではなく、神への賛美と感謝と愛によって神を畏れ、近づく信仰の証しとしての礼拝をささげよう。

 

2020/3/4(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17:5 賛美 新聖歌 233

 イエスは「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と語られる。肉をまとって世に来られたイエスの在世当時、イエスと寝食を共にし、イエスから教えと薫陶を受けることの出来た弟子たちは何と幸いであったかと思われる。しかし彼らは贖いの御業――十字架と復活――が未完であり、弁護者なる聖霊が遣わされていない中に在っては、真にイエスを知ることはできなかった。彼らが真にイエスを知ることができたのは聖霊降臨の後であった。それを思う時、救いの御業が成し遂げられ、弁護者なる聖霊が遣わされた中に在って、信仰を与えられ、キリストを知る恵みに導かれた私たちは何と幸いなことであろうか。日々感謝しょう。御名を賛美しょう。さらに深くキリストを知る者となろう。そして日々御心を行う者となろう。

 

2020/3/5(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書5:25-27  賛美 新聖歌166

 民がささげるいけにえや礼拝を受け入れられない神は何を求めて、何故それらを求めておられるのであろうか。イスラエルの民は荒れ野での40年間の経験を通して礼拝者として整えられた。ここでも荒れ野での経験を思い起こすように招いておられる。この40年間、彼らは神から恵みを受け続けた。まさに神ご自身が助けと恵みを与えられ、民はその恵みに信頼して神とともに歩むことを学んだ。その神への感謝と畏れによって促されて彼らは真の神を礼拝していた。しかし時がたつにつれてこの礼拝の根拠は人間的な取引へと取って代わられ、さらに民は偶像を持ち込んでしまった。もちろんこの多くが彼らにとっては異邦人との出会いを通して自然に受け入られたものであり、自覚的に神に逆らったわけではなかったであろうが。しかし、それは神から離れる行為であり、捕囚という裁きを招くのであった。

 神は焦点がずれている民の礼拝を拒まれた。決して神の気まぐれによるのではなく、そこに神への愛と信仰が失われていたからである。このような礼拝は裁きを招く。私たちの礼拝も神に喜ばれ、受け入れられる、神への愛と信頼に基づくものであり続けたい。

 

2020/3/6 担当 高谷清師 詩 51:6  賛美 新聖歌 216

 続いて詩人は「あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは「真剣な罪の意識の中で、彼はまったく鋭い神の審きのきびしさを経験する。また罪認識を通じて神の実在に対する眼があらたに開かれる事実のさなかで、罪の中に彼を放置しない神の恵みの手を感じとる。こうして祈り手にとっては、自分の罪の深淵をのぞくことが同時に、罪の審きの中でも恵みを示す(10節も参照)究め難い神を見上げることになる。/人生の謎との生身の格闘のさ中でこのような人に示される神の不思議なわざに対して、パウロは神がこの世を救われる経綸を見すえながら、不朽の讃歌を献げたのである「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。」すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ロマ 11:32-36 新共同訳に置き換えました。)『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P7778)と述べておられる。

隠れており、隠しておきたい罪を指摘されることは私たちにとって辛く苦しい経験である。しかしそこには人が心の中に罪を温存して死に至ることを許さない神の燃える愛がある。神の愛に信頼し、罪を告白し、悔い改め、恩寵に生きよう。

 

2020/3/7(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 24:36-39 賛美 聖歌 635

 主はご自身が再びおいで下さる時について語られる。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。」と語られる。神は、地が神の前に堕落して不法に満ちているのをご覧になって、洪水をもってこの地を滅ぼすことを決意し、ノアに箱舟の建造をお命じになった。ノアは命令に従い、命令通りに建造した。そして人々に神の警告を伝え、箱舟に入るように勧告した。しかし人々には、神の警告はたわごとにしか響かず、彼らは勧告を無視し、肉欲の儘に生活した。一方、ノアを通して語られた神の警告は確実に実現し、箱舟に入ることを拒んだものはすべて滅ぼされた。主が再び来られる時もそれと同じであると言われる。それ故、私たちは神のみ言葉に忠実に歩もう。