2020/11/16-21

 2020/11/16(月) 担当 高谷清師 ヨハ 20:19-23 賛美 新聖歌 412

 復活されたイエスは弟子たちにご自身を顕された。そして「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と語って弟子たちに宣教命令を与えられた後、「聖霊を受けなさい。」と命じられた。昇天を前にして弟子たちの問いに答えて「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使  1:7)と語られた。この言葉に従い、祈りながら待ち望む弟子たちの上に約束の聖霊が注がれた。聖霊を受けた弟子たちは変えられた。今までユダヤ人を恐れて息をひそめていた弟子たちは、表舞台に立って福音を証しし始めた。彼らの手によって数々の徴が行われ、彼らの語る言葉は聞く魂を悔い改めに導いた。実に、聖霊は宣教の力である。闇の勢力がますます力を増す時代にあって、サタンに捕らわれた魂の救いのために聖霊に満たされて真理の言葉を証ししていこう。

 

2020/11/17(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書4:11-13  賛美 新聖歌165

 諸国民はイスラエルが戦争に負けてエルサレムが陥落したのを見て自らの勝利を確信し、シオンを守られる聖なる方をも侮っている。しかし12節では人々が水平的に歴史上の出来事を見る視点は神の視点とは全く異なることを明言する。歴史に起こるすべてのことの背後に神の働きと御心がある。打倒され、弱っているシオンに対して神は立ち上がって仕事をせよと言われる。その時にこのシオンの民を用いて勝利を得、世界に対して支配を宣言されるのは神ご自身である。

 ミカは歴史の現実を超えた終わりの時に神が明確に表される勝利を語った。最終的に全世界の支配を実現されるのは神ご自身であり、そこには完全な勝利がある。この終末における神ご自身による勝利の約束は今もなお有効である。目の前の出来事だけにとらわれるのではなく、その背後にある神のご計画を求め、最終的に主の業がなされるために、人間は何を行うべきか、祈り求めよう。

 

2020/11/18(水) 担当 高谷清師 ヨハ 20:19-23 賛美 新聖歌 394

 弟子たちの宣教の内容についてイエスは「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と語られる。この箇所について土戸清師は「イエスの弟子たちが、人々の罪を許したり、そのままにしておくことが可能なのは、イエスの弟子たちの共同体に臨在される復活・高挙のキリストが、ちょうど、父なる神がイエスをこの世につかわされたように、弟子たちをこの世につかわされるからであって、私たち個々のキリスト者に固有な、人間的権威やカによるのではない。(中略)挙げられた主のその「継続する職務」は、個々の人々に直接無媒介的に任命されるのではなく、キリストのからだである教会におけるキリストの行為を通して任命されるものである。それゆえこの二三節における罪の許しと、罪を許さずにおくことに関する言葉は、罪に対する主イエス御自身がとられた態度の光のもとで理解されねばならない。イエスの公生涯における教えと業が、罪を許すことと、そのままにしておくことの判断規準であって、他のものをもって代えることは、福音の本質と異なる行為である、と言えよう。」(説教者のための聖書講解No3020日本基督教団出版局1980)と述べておられる。教会に与えられた権威は神の御心に従って執行されなければならない。私物化して恣意的に用いられてはならない。神に対する畏れをもって使命の遂行にあたろう。

 

2020/11/19(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書4:14  賛美 新聖歌248

 この節の直前には終末における神ご自身による勝利が語られ、この後の5章の冒頭には「メシア預言」が続く。そのような前後関係において、この14節がなぜここに置かれているのか、どのようなつながりにおいて理解するのかが非常に難しい。しかしミカのメッセージを受け取った人々はこのような現実の中に生きていたのであろうと考えられる状況を14節から伺うことができる。敵に包囲され、逃げ場がないという重大な事態の中に閉ざされていた人々である。人はそのような絶望的な現実からは目をそらし、たとえ砂上の楼閣であったとしてもひと時安心感を与えるような救いの宣言だけを聞き入れたいと願うものであろう。しかし4:14はそのような絶望的な現実を否定したり、目を背けたりするのではなく、この状況でこそ力をもって回復と勝利を宣言される神を見上げる信仰を持つように励ます。

 私たちの周りに問題がなく、すべてが順調に運んでいるときに神を信じることはさほど難問ではない。しかし苦境に立たされた時にその状況を直視して正しく評価しつつもなおも神に対するゆるぎない信仰を持つことが肝要である。

 

2020/11/20(金) 担当 高谷清師 詩 58:2-3  賛美 新聖歌 434

 詩人は「しかし、お前たちは正しく語り/公平な裁きを行っているというのか/人の子らよ。 いや、お前たちはこの地で/不正に満ちた心をもってふるまい/お前たちの手は不法を量り売りしている。」と述べる。新改訳はこの箇所を「力ある者よ。ほんとうに、おまえたちは義を語り、人の子らを公正にさばくのか。いや、心では不正を働き、地上では、おまえたちの手の暴虐を、はびこらせている。」と訳している。「力ある者(新改訳)」について鍋谷尭爾師は「「力ある者よ」は五六篇表題に出てくる「もの言わぬ」と同じですから、直訳すれば「黙っている者よ」となります。いつの時代においても「力ある者」、すなわち裁判官や政治家が、義を諮り、公正にきばかず、黙っているので、2節以下にあるような悲惨が地にはびこっているのです。その悲惨さはあまりにもひどいので、たとえでしか表現できないのです。(詩篇を味わう?』P156のことば社 2006)と述べておられる。そして小畑進師は「今も昔も、権力者は何かといえば「正義」を口にし、公正を装う。しかし、詩人は下から権力者を指さすと、「力ある者よ。ほんとうに、おまえたちは義を語り、人の子らを公正にさばくのか」と諮問したのです。お上は常に正しいと言えるのか、と。(中略)詩人は権力者のなすがままに従うことができず、かえって、本当にあなたたちの語っているのは義なのですか、あなたがたの審きは公正なのですか、と王たちに問うているのです。実際、考えてみれば、この一節は、いつの世にも、時の権力者に問うてよいことばかもしれません。また、自分が何らかの権力を有しているならば、この一節をもって自問自答するによいことばかもしれません。」(『詩篇講録上』P397いのちのことば社2007))と述べておられる。み言葉を委ねられている者たちにとっても心すべき言葉である。

 

2020/11/21(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 22:39-46  賛美 新聖歌 191

 イエス様がそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれたので、弟子たちも従いました。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われ、自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいて「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈られました。十字架を前にしてこの祈りは真剣なもので、「汗が血の滴るように地面に落ちた」と記されています。主は十字架の苦しみを前にしても「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈っておられます。私たちの祈りは「病を癒してください」「○○をしてください」といった自分の願望を求める祈りのなんと多いことでしょうか。主は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタ 6:33)と教えておられます。日々、御心に適う祈りをもって主に仕えましょう。