2020/10/26-31

2020/10/26(月) 担当 高谷清師 ヨハ 20:19-23 賛美 新聖歌 281

 復活された主は週の初めの日の夕方、弟子たちが集まっている部屋に来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。この時、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていたのである。弟子たちはイエスが捕えられ、裁かれ、十字架につけられる流れの中で、神の子として何らかの奇跡が起こることを期待したであろう。しかしその期待は空しく、イエスは極悪人として十字架上で息を引き取られた。未だ聖霊が遣わされず、御言葉の奥義を理解していなかった弟子たちの心は、イエスの仲間として自分たちもイエスと同じように捕らえられ、裁かれ、罰せられるのではないかとの恐怖に満たされていたのである。そのような弟子たちのところに、イエスは入って来られて「あなたがたに平和があるように」と言われたのである。イエスはかつて「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハ 14:27)と語られた。復活のイエスとの再会は弟子たちの心に平安と喜びを満たしたのである。
 
2020/10/27(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書4:1  賛美 新聖歌282
 3章の終わりの部分ではエルサレムの指導者たちの罪が述べられたうえで裁きとしてこのシオンの町は滅ぼされ、完全に荒廃すると述べられた。それに対してこの4章冒頭に述べられるシオンの姿は正反対である。主がそこにおられる神殿の山は他のどの峰よりも高くなる。そしてシオンはもはや荒廃して忘れ去られる都ではなく、世界中から民が押し寄せてくる、神の臨在の場所となっている。これは現実を超えて終わりの日に神が回復してくださるシオンの姿である。人間の手による回復ではなく、神の御業による回復であり、そこには神の支配が行き届いている。
 人々の日々の生活は罪に満ちている。神の言葉を聞いている人々ですらも気づかぬうちに罪を犯している。その結果、裁きを受けて滅ぼされる。しかし最終的に世の終わりの時に都を立て直してくださるのは神ご自身である。罪深い人の手によらず、神の憐れみ深い御業によってのみこれは成し遂げられる。ここに将来の希望がある。終わりの時になされる確かな神による新たな創造と回復の希望を仰ぎ見よう。
 

2020/10/28(水) 担当 高谷清師 ヨハ 20:19-23 賛美 新聖歌 222

 恐怖におののき、息を凝らしている弟子たちの所にイエスはおいでになって「あなたがたに平和があるように」と言われた。パウロは「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ 4:6-7)と述べている。また、ヨハネは「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(?ヨハ4:18-19)と述べている。現在に生きる私たちは罪の結果としての個人の孤立、それに伴う家庭崩壊、新型コロナウイルス感染拡大の不安、それに伴う経済の停滞による社会不安、人の心に巣食う憎悪に基づく核兵器への不安、すべての人に臨む死への不安、・・・・・それらを克服するのは愛である。キリストの福音である。十字架に顕された神の愛を証しし続けよう。
 
2020/10/29(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書4:2  賛美 新聖歌420
 神がシオンを回復なさり、人々がそこに神の御業を見、臨在があることを知る。その時に人々はここに集まってくる、いや神のもとに引き寄せられて来る。誰に強要されるのでもなく、人々は道を示してくださる主のもとに自発的に進み出る。そして人々が進み出てくるこのシオンにおいて神の教えが流れ出る。人々の飢え渇きと神の言葉がここで出会うのである。
 このミカが伝えた「終わりの日」の出来事を私たちも早く見たい、体験したいと願う。このことがいつ起こるのかと知りたいと願う。しかしこの時を定め、行わるのは神であって私たちはその時を知らない。ただ示された終わりの日の様子を心にとめながら、神の時が来ることを仰ぎ見つつ主のみことばを慕い求めて神の前に進み出るのみである。上にあるものを仰ぎ望み、神の臨在の中へと進み出よう。
 
2020/10/30(金) 担当 高谷清師 詩 57:1-7  賛美 新聖歌 390
 詩人は「わたしの魂は屈み込んでいました。彼らはわたしの足もとに網を仕掛け/わたしの前に落とし穴を掘りましたが/その中に落ち込んだのは彼ら自身でした。」と詠う。敵対する者たちは詩人を陥れようとして鋭い言葉をもって攻撃し、様々な策略を巡らした。そのような中で詩人が神に救いを求め祈った時、巡らした策略に陥ったのは敵対する者たち自身であった。これを見る時、想起されるのはモルデカイとハマンの物語である。パウロは「わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」(?テモ 2: 13)と述べている。真実なるキリストによって救いに入れられた者は常に真実に生きることが求められる。真実のみ言葉を知りながら自己保身と栄達のために忖度し、御言葉の解釈を捻じ曲げ、不真実に生きてはならない。それが現在の風潮であるにしても。キリストに従う者は常に真実に生きよう。
 
2020/10/31(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 23:39-43  賛美 新聖歌 32

 イエス様が十字架に架かられた時、イエス様と一緒に二人の犯罪人が十字架に架けられていました。そのうちの一人は自分の罪を悔い改めることをせず、議員たちと同じように「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と、イエスを罵っていました。それに対してもう一人の犯罪人は「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」とたしなめ、「この方は何も悪いことをしていない。」と言い、イエス様に向って「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願いました。これに対してイエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。この記事から私たちが御国に受け入れるために求められるのは悔い改めと信仰であることが分かります。罪を悔い改め、信仰によって歩みましょう。