2015/12/14-19

2015/11/14 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ2:16-17 賛美 新聖歌 225
 キリストにおいて私たちに与えられている自由の第三は、罪の支配力からの自由である。イエス御自分を信じたユダヤ人たちに「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」と言われた。ユダヤ人たちは「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」と反論した。それに対してイエスは「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」(ヨハ 8:31-36参照)と語っておられる。またパウロは「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。」(ロマ 6:6-7)、「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」(ロマ 6:14)と述べている。キリストの贖いの恵みに留まる限り、罪の支配力は及ばないのである。恵みの内を歩もう。

2015/12/15(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書19:11-15 賛美 新聖歌270
 エジプトへの裁きの言葉は続いている。ツォアンもメンフィスもエジプトの歴史を通じて重要な年であった。そして古代王国では各国が培ってきた知恵は大切な財産であった。エジプトの繁栄を支えた都市と知恵までもここで力がないものとされている。それらをよろめかすのはほかならぬ主が注がれる霊であった。ここでも重ねて、その栄華を誇り、力を信じているエジプトに対して、彼が無力であって神の前には何もなしえないという。
 表現を変えて何度も語られていることは、地上の国や組織がいかに強大であろうとも、それに勝る力を持った神がおられるということである。そして神はそれらの強大な地上の組織や国をも支配しておられる方である。私たちが従うべきお方、恐れるべきお方は神であることを覚えよう。

2015/12/16(水) 担当 高谷清師  ?ペテ2:16-17  賛美 新聖歌 201
 キリストの贖いの恵みによって罪から解放された私たちは素晴らしい自由を与えられた。その自由にある者の生き方についてぺトロは語る。「神の僕として行動しなさい」と。キリスト者は罪から解放され、自由とされた者である。それと同時に、神の僕である。彼らはその存在のすべてを神に負っているからである。真の自由、自分が欲する善をなすことが出来るのは、自分を十字架につけ、自分を空しくして神に従うときである。ヤコブは「しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」(ヤコ 1:25)と述べており、ヨハネは「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。」(?ヨハ5:3)と述べている。キリストに従うことによって真の自由を生きよう。

2015/12/17(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書19:16-25 賛美 新聖歌343
 エジプトに対する詞の最後には「その日には」という言葉が置かれている。現に預言者が見ている時代ではなく、終わりの日に起こることが示されている。どれほど神に逆らい、神を畏れないエジプトであっても最後には弱体化し、驚くべきことに,ユダがエジプトを混乱させる。エジプトにイスラエルの民が住み、エジプトもまた主を礼拝する人々の住むところとなる。この様にしてエジプトが神に立ち帰り、悔い改めるときに神はそれを聞きいれてエジプトを救われる。歴史を通じて神に敵対してきた国でさえも、心から真の神を信じて受け入れるならば、神は彼らの過去の歴史にかかわらず彼らを受け入れ、救われる。終わりの時にそれが起こり、エジプトと並んで神を拒んだ大国アッシリアもイスラエルと共に神の祝福を受ける。
 心から神を受け入れ、罪を悔い改めて立ち帰る者を神は赦し、救い、祝福を与えられる。人間にとっては罪びとを赦して祝福することは容易ではない。しかし神は、本当の悔い改めがあるところに赦しを与えてくださるお方である。今まだ神を認めていない罪びとが神を受け入れ、悔い改めて神の祝福に居られるよう、祈り、執り成そう。

2015/12/18(金) 担当 高谷清師  詩編8:1-5  賛美 新聖歌 434
詩人は勇壮な調べに乗せて全宇宙的規模におよぶ神の栄光を歌い上げる。それは幼子、乳飲み子の口によってたたえられる。神は、こざかしい人間の知恵をもって神を否定し、その栄光を無視しょうとする者を絶ち滅ぼされる。詩人は更に創造の御業に思いをはせ、その偉大さに感動を覚える。そして人に目を向ける。人、それは土から出たものに過ぎない。それにもかかわらず、神は「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創1:28)と言われ、御自分の創造されたものを人の手に委ねられたのである。この厳粛な事実を前にして詩人は「人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。」と語る。パウロは「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(?コリ4: 7)と述べている。罪の中に死んでいた者を、御子の血潮によって生き返らせ、尊い福音を委ねてくださった神に感謝しつつ、証しの生涯を全うしょう。

2015/12/19(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 5:18-20 新聖歌429
 イエスは悪霊につかれていた人を解放された。イエスが次の場所に移るために船に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。しかしイエスはそれを許さず、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と言われた。主の御業によって解放され、救われた人に、身内の中で証をするように、家に戻されたのである。彼が自分の場所において主が自分にしてくださったことを言い広め始めたので、その地方の人々は皆驚いた。神は一人一人にご計画を持ち、使命を与えられる。神から与えられたところにおいて主に仕えよう。”,,1118″