2015/12/7-12

2015/12/7 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ2:16-17 賛美 新聖歌 272
 新共同訳聖書において「神の僕として生きよ」と小見出しがつけられたこの箇所においてペトロは「肉の欲を避けなさい」(2:11)、「立派に生活しなさい」(2:12)、「人間の立てた制度に従いなさい」(2:13)、・・・・・と、私たちの歩みを制約し、縛るような言葉を述べてきた。しかし、16節において「自由な人として生活しなさい」と語る。キリストにおいて私たちに与えられている自由について考えたいと思う。その第一は律法からの自由である。パウロは、ピシディア州のアンティオキアにおいて「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」(使 13:38-39)と述べている。イスラエルは、律法をその一点一画まで完全に守り、それによって神の前に自らの義を確立しょうとして失敗した。主イエスは自らの十字架の血潮によって律法を全うし、信仰を持って自らを受け入れる者を律法から解放し自由を与えてくださったのである。パウロは「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラ 5: 1)と述べている。信仰によってキリストの自由にとどまり、歩もう。

2015/12/8(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書19:1-4 賛美 新聖歌373
 ここで裁きが宣言されるのはエジプトである。エジプトは世界の四大文明の一つでもあるように、古代から繁栄した大国であった。力が衰えた時もあったが、イザヤの時代にも大国であった。経済的にも軍事的にも圧倒的な力を誇るこの国が衰退することは現実的には考えられなかった。それでも主はこのエジプトにまで雲に乗って来られると語られる。そしてこの主を見るときにエジプトの偶像がよろめくのである。エジプトは各地で神としてあがめられる地方神と言われる偶像、そして国家神と考えられていた偶像など多くの偶像で満ち溢れていた。八百万の神を信じるという日本と変わらない状況であった。そのエジプトに主が来られる時、これらの偽の偶像は力の無さを暴露し、人々が導きを求めても何も与えることが出来ないのである。
 繁栄した国々では人々がそれは偶像の恩恵であると考え、その偶像は民の心をしばりつけ、支配する。しかし真の主が来られる時に、偶像には何の力もないことが露わになる。世界の造り主である主が御自身を顕してくださり、人々の霊の目が開かれるよう祈ろう。

2015/12/9(水) 担当 高谷清師  ?ペテ2:16-17  賛美 新聖歌 225
キリストにおいて私たちに与えられている自由の第二は、罪責からの自由である。ガラテヤ書には『キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。』(ガラ 3:13)と記されている。またヨハネの黙示録においてキリストは「御自分の血によって罪から解放してくださった方」(黙1:5b)と記されている。パウロは「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ロマ 8:33-34)と語っている。この箇所はパウロが神の愛の偉大さについて語っている箇所であるが、神がその偉大な愛によって信じる者に与えられた罪の赦しは、その赦された罪について再び責を問うものは何者も無いのである。神の恵みを喜び、み名を賛美しょう。

2015/12/10(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書19:5-10 賛美 新聖歌388
 エジプトの古くからの繁栄はその国を流れるナイル川の恩恵によってもたらされた。ナイルの水は人々を潤し、年ごとの氾濫によって沃土を運んでくることによって毎年豊かな穀物の収穫を与えた。さらにこの川は運河として物資の流通を支え、ナイルでの漁によって生活を支えられた人々がいた。まさにナイル川がエジプトを支えてきたのであり、これを抜きにしてはエジプトの繁栄と安定はなかった。しかし、主がエジプトに来られるとき、ナイルの支流だけではなく、大河全体と、さらに海までが涸れてしまうと語られる。長い歴史を通してのエジプトの経験から考えて、彼らはナイルの本流と海までが干上がるなどありえないこととあざけり笑うかもしれない。しかし神はそのことが起こる時にはエジプトのあらゆる人々が苦しむと語られる。
 真の神を知らず、その力を恐れない民にも、神は創造主としての力を表される。そして神を認めないならば裁きを行われる。神は全地の主である。一人でも多くの人が今日、主を認め、受け入れられるよう祈ろう。

2015/12/11(金) 担当 高谷清師  詩7:10b-18  賛美 新聖歌 282
 故なき苦難の中に在って「敵に対して怒りをもって立ち上がり」「諸国の民を裁いてください」と祈り求めてきたダビデは「心とはらわたを調べる方、神は正しくいます」と信仰を言い表す。悪をなす者について「彼らは悪をみごもり、災いをはらみ、偽りを生む者です。 落とし穴を掘り、深くしています。」と述べる。そして「仕掛けたその穴に自分が落ちますように。 災いが頭上に帰り/不法な業が自分の頭にふりかかりますように。」と語る。主イエスは「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。」(マタ 23:29-33)と語っておられる。いつの時代にもおごり高ぶる権力者は、主にあって義の道と真実を語る者を迫害してきた。その権力者に媚び、虚偽の訴え、証言をする者が絶えなかった。パウロは「悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。」(?テモ 3:13)と述べている。彼らは主の裁きに耐えない。詩人と共に「正しくいます主にわたしは感謝をささげ/いと高き神、主の御名をほめ歌います」と告白しつつ歩もう。

2015/12/12(土) 担当 高谷由紀子師  ルカ18:9-14 新聖歌196
 ファリサイ派の人は他の人たちの生活を見て自分の方が彼らよりもいくらか正しいことを確認して安心しています。隣の徴税人を見下して「この徴税人のような者でもないことを感謝します。」(18:11)と祈るのです。ファリサイ派の人は神の御前でも自分を中心にしか考えず、他人と比較して自分の方が絶対に正しいとしか見ないのです。ファリサイ派の人の祈りは自画自賛の独り言です。神に対する祈りではないのです。それとは対照的に徴税人の祈りは真実と謙遜をもって神の御前で自分を低くして神の憐れみを求める祈りです。彼は自分の罪を認めて悔い改めているのです。
 主はだれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者を高められると言われるのです。”,,1114″