2015/12/21-26

2015/12/21 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ2:16-17 賛美 新聖歌 355
 私たちはキリストの尊い血潮によって「空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊」から解放され、自由なものとされたのである。自由に生きる者とされた私たちに対しペトロは「その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず」と語る。パウロは「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラ 5:13)と述べている。またこの箇所について小畑進は「〈自由〉という宝は誤用、悪用、乱用される恐れがありました。コリント教会は、キリストにある自由をはき違えて、自由なんだからと、近親相姦に走り、飲んだり食ったり、異言の狼籍、女性の放埒に沈んで、たしなめられました。自由だ・自由だと口にして、実は放縦。わがまま、放埒を呈しました。こんなことから、「その自由を、悪の口実に用いないで」という一石は必要でした。」(『小畑進著作集第5巻 ペテロの手紙第一講録』、2011、いのちのことば社。P214)と述べている。私たちはこの尊い自由を肉の欲を満たすためではなく、聖なる神のみ旨を行うために用いよう。

2015/12/22(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書20:1-6 賛美 新聖歌338
 20章全体の預言の中に三つの出来事が語られている。アッシリアによる地中海沿いのペリシテ人の町であるアシュドドとエジプトの滅びはわずか10年の間に起こった。それに先立って神はイザヤに裸、はだしで三年間歩き回ることによってエジプトが滅ぼされることを預言された。しかし当時はパレスチナ地方ではアッシリアに対する反乱が強まり、これらの国々は南にあるエジプトを後ろ盾としていた。エジプトの力があればアッシリアの王から救われると信頼していたのである(20:10)。ユダもそうであったのだろう。しかしイザヤは7章でアハズ王にも警告したように、いかに頼りになると見えたとしても人間の力であるエジプトに頼っても救いはないという。イザヤの言葉は一貫している。人ではなく、神に頼れということである。
 今日でも私たちは助けが必要なときに周りの人々に頼る。助けを求めることも必要であろう。しかし、私たちが根本的に信頼を寄せるのはただ神だけである。神と共に歩むということは、神を信頼して歩むことである。そのことを覚えて歩もう。

2015/12/23(水) 担当 高谷清師  ?ペテ2:16-17  賛美 新聖歌 137
 17節においてペトロは御子の血潮によって自由な者とされた私たちの生き方について教えている。その第一は神を畏れて生きることである。十字架は、神の私たちに対する無限の愛と赦しをあらわしている。確かに、神の愛は深く、広く、その赦しには限りがない。しかし、同時に聖書は神の厳しさをも教えている。パウロはロマ書において「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」(ロマ11:22)と述べている。近年、教会においては神の愛、神の赦し、神の慈しみが強調されるあまり、神の裁き、神の厳しさについて語られることが少なくなっているのではないだろうか。その結果としてキリスト者の、神に対する畏れの念が希薄になっているのではないだろうか。パウロは「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」(ガラ6: 7)と述べている。私たちは神の偉大さ、尊厳に目を向け、身を正し、畏敬の念をもって歩もう。

2015/12/24(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書21:1-10 賛美 新聖歌356
 バビロンに対する言葉は13章と14章に述べられていたが、ここで再び語られる。アッシリアを倒して大国になったバビロンは南王国ユダを滅ぼした。歴史の一時代に大きな権力を誇った国である。誰一人としてバビロンが滅ぼされるということを考えられない時に、神は見張りを立てるように預言者に語られた。その見張りが最初に見たのはバビロンに向かってくる二頭立ての戦車であった。その後聞いたのはバビロンが滅ぼされたことであった。人には考えられないようなことも、神はご存じである。そしてユダを苦しめるバビロンが滅びるという、ユダにとっては一つの苦しみの時代の終わりを神は告げられる。
 苦しみのさなかにあって苦悩を感じ、将来に希望を持てない時、私たちは途方に暮れる。その中でも神を信頼するのは、神が全てを御手に治めておられる方であり、神は将来をもご存じの上で私たちを導いてくださる方だからである。

2015/12/25(金) 担当 高谷清師  詩編8:1-5  賛美 新聖歌 21
 5節において詩人は「そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。人の子は何ものなのでしょうあなたが顧みてくださるとは」と詠った。「人間」(新改訳聖書では(人)について小畑進は「人(エノーシユ)」は、「弱いもの」・「もろいもの」・「死すべきもの」の意を含み、「人の子」(ベン・アーダーム)は、「土より出たもの」の意を有しています。(『詩篇講録上』いのちのことば社、2007。P92−93)と述べている。神はこのような人間に、ご自身の被造物、羊も牛も、野の獣も、 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも、を支配することを委ねられ、それによって栄光を賜ったのである。それ故、詩人は「主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう。」と御名を賛美するのである。私たちも詩人と共に力の限り、御名を讃えよう。

2015/12/26(土) 担当 高谷由紀子師 サムエル記上3:10  新聖歌316
 私たちは日々会話を通してお互いの意思を伝え合い、理解し合って暮らしています。一方的に自分のことだけを話して相手の話を聞かない人に出会うときがありますが、そうするとお互いを深く理解し、信頼関係を築くためにより多くの時間を要することになります。
 サムエルは幼い時から祭司エリのもとで主に仕えていました。ある日寝ている時に主が「サムエル」と呼ばれる声を聞き、祭司エリに教えられた通りに「どうぞお話しください。僕は聞いております。」と答えて主の言葉に耳を傾けました。その日以来、サムエルは主の言葉に聞き従うことを第一としました。サムエルは「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(サム上15:22)と言っています。またパウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ10:17)と言っています。御言葉に耳を傾けることが信仰生活の基本です。私たちも神に向かって様々な願いを語ること以上に、御言葉に耳を傾けて聞き従う生活を送りましょう。”,,1148″