≪デボーションの友≫2022/9/12-17

2022/9/12(月) 担当 高谷清師 ガラ 3:15-17 聖歌(総)481  聖歌468

 パウロは「アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。」と語る。マタイは「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタ 1:1)と述べている。神はアブラハムに対して「見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。」(創13:15)と語っておられる。更にパウロは「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(ロマ  8:15)と語り、「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ロマ 8:17)と語っている。アブラハムとその子孫即ちキリストに与えられた約束は信仰によって子とされた私たちに与えられているのである。

2022/9/13(火) 担当 ラウジー満世師 創世記16:7-16 賛美 聖歌(総)521 聖歌503

 サライとの対立の後、身重であったハガルは女主人から逃げた。命の保障がない所へと出て行くことになったのである。アブラムをはじめ、誰一人としてハガルを守る者はいなかった。人々から見捨てられたこの母と胎内の子を顧みて下さったのは主であった。逃げて行った旅路で主のみ使いがハガルに現れて挨拶し、言葉を交わした。その対話の中で主は選ばれた家系の外に生きる者にも憐れみを注ぎ、生きる道を与えて下さった。ハガルとその子もまた神に顧みられる存在であり、命の祝福の内に置かれる者であった。

 神はすべての人を等しく顧みて下さり、決して放り出すことはなさらない。人々は「内」と「外」を区別して「外」の人を疎んじ、攻撃することがあるかもしれない。しかし神にとってはすべての人が尊い存在であることを覚えよう。

2022/9/14(水) 担当 高谷清師 ガラ 3:17-18  聖歌539  新聖歌282

 パウロは「相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。」と語る。3:10-12において「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。」(ガラ3:10-12)と述べた。更に、「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。」(ロマ4:13-16)と語っている。約束を信じる信仰によってこそ、確実に約束にあずかれるのである。

 

2022/9/15(木)担当 ラウジー満世師 創世記16:7-16 賛美 聖歌(総)495 聖歌478

 女主人のもとから逃げたハガルは孤独であった。アブラムは家長であり、ハガルと生まれて来る子を守るべき立場であったが、現実は違った。一人ぼっちになり、命の保障も失い、目指すべき場所も持たなかったハガルは、この恐怖と孤独な旅路において全く思いがけない体験をした。アブラムの神がみ使いを送ってハガルに出会ってくださった。この神がハガルをも見ていてくださるという驚くべき恵みを体験した。その時、ハガルは主の御名を呼び、アブラムの神を礼拝したのである。つまり、アブラムの神がこの個人的な出会いを通してハガルの神であると知ったのである。

 神と個人的に出会うとき、人は神の名を呼び、神を礼拝し、神を賛美する。私たちも神と出会い、神が私たち一人一人に計画を持っていてくださることを知る。この神を知る時に感謝と賛美と礼拝へと導かれる。日々の霊的な歩みにおいて神に見守られ、顧みられていることを常に思い起こし、恵みを数えて賛美と感謝と礼拝をささげ続けよう。

2022/9/16(金) 担当 高谷清師 詩 70:1-4 賛美 聖歌(総)489 聖歌472

 この詩篇についてA. ヴァイザーは「いや増す讃美」という表題を付し、月本昭男師は「老いて白髪にいたるまで」という表題を付しておられる。そしてこの詩篇の詠者について月本昭男師は

「本詩の祈り手は、若き日より神ヤハウェの「不思議な業」を学び、弦を奏でつつ同胞にそれを歌って聞かせる詠唱者であったろう(17-18・22節参照)。神殿入場を念頭におく「入る」(3・16節)という動詞は、それが神殿における彼のつとめであったことを暗示する(詩5:8・42:3他)。ところが、「老い」(9・18節)を控えて不慮の災厄に見舞われた祈り手は、彼を心よく思わぬ者たちから神に見棄てられた者とみなされ(11節)、神殿から排除されてしまったのである。祈り手がおかれた苦境をこのように想定することによって、救いの懇願から、ぎこちなさを残しつつも、徐々にヤハウェ讃美の願いへと移行する本詩の主題構成がよく理解されるだろう。」『詩編の思想と信仰Ⅲ』P289新教出版社2011)

と述べておられる。

 そのような状況の中で詩人は神の許に避けどころを見出した。それによって敵対する者の中に在っても平安を得て祈ることが出来るのである。詩篇62篇の詠者もまた「民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」(詩  62:9)と詠っている。いかなる時にも信仰に立って歩もう。

2022/9/17(土) 担当 高谷清師 マタ 6:13 賛美 聖歌(総)643 聖歌605  主は「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく/我らの罪をも赦したまえ」と言う祈りに続いて「私たちを試みに遭わせず/悪からお救いください。」と祈るように教えておられる。安部元総理暗殺事件を通して明らかになったことの一つは旧統一教会が日本の政界をはじめ、日本の社会に深く食い込んでいる現状である。市民からの批判を浴びて政界においては「彼らとの関係を断つ」と宣言している。その宣言が偽りであるとは言わないが、その実行は極めて困難であると思われる。罪の清めはキリストの十字架の血潮によらなければあり得ず、それは聖霊の御力なしには不可能なように、サタンからの解放は聖霊の御業なくしてはあり得ないからである。「悪からお救いください」という祈りはこの国のキリスト者に喫緊に求められているのである。